赤坂猛「野生動物問題よもやまばなし」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。2008年度より石狩圏に生息するエゾシカの生息実態調査等に着手。一方、地域に埋もれ行くタンチョウなど「野生動物と人との関係史」の発掘調査にも取り組んでいる。調査手法はひたすら「歩く・観る・聴く」そして「編む」、とシンプル。

第7回 昭和20年代の狩猟鳥獣

1947(昭和22)年9月の狩猟法・施行規則等の改正により、狩猟鳥は従前の47種が21種へと半減されました。また、狩猟期間の大幅な短縮、カスミ網の使用禁止、そして多くの狩猟鳥で捕獲数の制限措置もとられました。そこで、これらの「狩猟者」に課せられた新たな施策が、狩猟鳥獣の捕獲等に与えた影響を視てみたいと思います。

狩猟鳥獣の捕獲推移

図‐1をご覧ください。終戦を迎えた昭和20年「代」(1945~1954年)の狩猟鳥獣の捕獲数の推移を概観したいと思います。

図―1 狩猟鳥獣の捕獲数の推移(1928年~1962年)

図-1

「狩猟鳥」は、終戦直後の概ね1300万羽から一気に500万羽弱へと急減します。1950年頃より毎年増加し続け、1954年には800万羽となりました。一方、「狩猟獣」は、1946年の110万頭が翌1947年には約70万頭となり、以後1950年まで70万頭台で推移します。しかし、翌1951年には増加に転じて100万頭を越え、その後も増加し続け1954年には130万頭台となりました。狩猟鳥獣の捕獲数の推移は、昭和20年代の前半期は捕獲数を大きく減少させましたが、後半期には捕獲数が一様に増加してきていることがわかります。

次に、上記の昭和20年代の狩猟鳥獣の捕獲数の推移をもたらした「原因等」を考えてみたいと思います。

 

図‐2 狩猟者数の推移(1928年から1962年)。「鳥獣行政のあゆみ」(林野庁 1969、p305)より作図。

図-2

まず、冒頭で「狩猟の継続」裁定に関してGHQは、狩猟について「装薬銃による狩猟は、狩猟を生業とする者のみに許可されたほか、有害鳥獣駆除の場合に認められたにすぎず、趣味としての狩猟は許されなかった(林野庁 1969)」、とありました。狩猟者とは狩猟を生業とする者であり、趣味でする者はさにあらず、としています。このため、私は1945(昭和20)年以降の狩猟者は厳しく査定され、結果として狩猟者数は減少していくであろう、と考えていました。

ところが、昭和20年代の狩猟者数は図‐2のように、昭和19年の12万1000人に対し、昭和20年は13万4000人、昭和21年は16万7000人と急増し、その後、一転し昭和25年頃は10万人前後へと減少します。しかし、昭和26年以降は増え続け、昭和29年には18万3000人となっています。

昭和20年代の狩猟者数は、昭和10年代に比べ大きく増えてきましたが、「狩猟鳥の捕獲数」は上述したように大きく落ち込んでいました(図‐1)。この主な原因は、施行規則の改正等(狩猟鳥の半減、カスミ網猟の禁止及び一日の捕獲数制限など)が、「狩猟鳥」の捕獲数の大きな減少をもたらしたのではないかと推測しております。

また、狩猟鳥・獣ともに、昭和20年代の前半に捕獲数が一段と大きく落ち込んでいるのは、猟用資材の極度の不足等が「狩猟行動」に大きな支障をきたしたのではないでしょうか。敗戦とともに、昭和10年代の軍部主導による毛皮取集システム(「よもやまばなし」第4回)が消滅し、狩猟者への猟用資材の配給も雲散霧消してしまいました。

狩猟法・施行規則等が改正された二か月後の1947(昭和22)年11月、大日本猟友会の雑誌「猟」が創刊されました。その「猟」の巻頭言に大日本猟友会会長・鷹司信輔氏が、「(略)連合軍総司令部当局の注意にまつまでもなく、領土の狭小になった日本、それに比例して人口の夥しく密集して来た日本に於いて、鳥獣を自然のままに猟獲していたのでは、狩猟の運命はもう先が見えているのだ。我々はみずからの手で狩猟鳥獣をつくらなければならなくなっているのである。狩猟鳥獣の養殖は今後の猟友会の大きな使命の一つとなるであろう(大日本猟友会 1947c)。」と寄稿していました。

敗戦の2年後、当時の狩猟及び狩猟鳥獣の置かれている状況に想いを馳せていただければ、と思います。

昭和20年代の狩猟鳥獣は、昭和10年代の「軍部主導の毛皮収集システム」からは解放されたものの、引き続き、深刻且つ未曽有な食糧危機の渦中において農作物の増産に資する有害鳥獣駆除、食肉増産、毛皮増産という戦後社会の喫緊の要請に「追跡され続けた」といえましょう。


引用文献


2020年9月15日公開