赤坂猛「野生動物問題よもやまばなし」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。2008年度より石狩圏に生息するエゾシカの生息実態調査等に着手。一方、地域に埋もれ行くタンチョウなど「野生動物と人との関係史」の発掘調査にも取り組んでいる。調査手法はひたすら「歩く・観る・聴く」そして「編む」、とシンプル。

第9回 昭和30、40年代の狩猟鳥獣と社会(その2)

長野県伊那地方では、猟師が獲らえた鳥獣(山肉/さんにく)は、仲買人である「しし買い」に買い取られ、そして「山肉屋」で売られてゆく、そのような『山肉の流通』を前回のコラムで視てきました。今回は、東北地方などでの鳥獣の流通を通して昭和30〜40年代(1955〜74年)の狩猟鳥獣と社会を考えてみたいと思います。

秋田県角館町の「魚屋」の鳥獣

「消えゆく山人の記録 マタギ」(太田 1979)には、秋田県の内陸の角館町に所在する魚屋について次のように記されています。なお、マタギとは「みちのくの雪深い山峡に生きてきた狩人」と著書の表紙に記されています(写真)。

太田雄治(1979)『消えゆく山人の記録 マタギ』.翠楊社.

「サルの肉を賞味したのは、昭和のはじめころまでである。当時、角館町の五十集屋(イサバヤ──塩干類を売る魚屋)の店頭には、毛つきのままのサル、キツネ、ムジナ、ガン、ヤマドリ、キジ、山ウサギなど下げられ、またサルは枝肉としても店頭で売られていた。大正の中ごろまでは寒に入ると「エンコ(方言でサルのこと)えんすか」(サルの肉はいりませんかの意)とサル肉を売りあるいたものである。冬になり、サルの枝肉を買って味噌漬けにし、焼き肉にするとたいへんうまい。……」

魚屋の店先にはサルなど中小の狩猟鳥獣が吊り下げられ、さぞかし賑やかな光景だったのではないでしょうか。私は、長野県伊那地方の山肉屋の店先も同じような光景をしていたのではないかと推察していますが、残念ながら「狩りの語部」(松山 1977)では山肉屋の様子は描かれていませんでした。

さて、上記の角館町の五十集屋の話は昭和初期のことでした。実は、その半世紀後となる昭和50年代初頭にも同じような魚屋の様子が以下のように記されていました。

「山ウサギは今でも仙北郡角館町のイサバ屋の店頭で、真白い毛付きのままでぶら下げられて売られている。毎年寒に入った1月ころからである。最高にうまいのは山椒を食べているウサギ」(太田 1979)

この太田雄治さんの著書の口絵の写真には、イサバ屋の店先に12頭の真っ白なウサギと3羽のカモ類(?)が吊り下げられていました。ノウサギ等の店頭売りは、当地では少なくとも昭和初期から半世紀の間営まれてきたように思われてなりません。

秋田県能代市の「肉屋」のカモ類

「鳥獣の店頭売り」は秋田県の能代市でも記録されていました。民俗学写真家の須藤功(2004)さんの「写真物語 昭和の暮らし 2 山村」の「第4章 感謝して獲る山の鳥獣」に、「肉屋の店頭に吊り下げられた羽毛つきのカモ類約11羽とカモの品定めをしている古老」の写真があります。キャプションには「……カモなべ、カモ焼きなどにして食べた。……警戒心の強い鳥なので獲るのは簡単ではない。能代市 1952(昭和27)年 撮影・南 利夫」とありました。日本海に面した能代平野には、多くのカモ類が飛来してきていたのではないでしょうか。

狩猟鳥獣の「肉の流通」

狩猟鳥獣の「肉」の販売は、本業の「魚屋」(角館町)や「肉屋」(能代市)による冬季限定の商いのように推察されます。狩猟期間が冬期間をメインに定められているためです。

さて、角館町の「魚屋」の店頭に吊り下げられていた狩猟鳥獣について、「この地域は奥羽山脈沿いに位置し、こうした野生動物の肉の流通には、マタギが関わっていたと考えられる」(岡 2011)と考察されています。

そのマタギが関与した「野生動物の肉等の流通」については、聞き書きの書でもある「マタギ 森と狩人の記録」(田口 1994)の随所に記録されています。例えば、「山さ10日もいで獲物獲ればよ、里さ下りてきて、今度は肉売って、皮売って商売したもんだすな。……」、「サルはテンとかバンドリと同じで黒焼きにして行商に歩く人方に売ったすな。……」などと、「流通」の生々しい様子をうかがい知ることができます。

秋田県の「魚屋」(角館町)や「肉屋」(能代市)の店頭に吊り下げられた鳥獣には、多くの狩人が関与していたと思われます。狩人の獲らえた獲物やその加工品は、直接「肉屋」や「魚屋」、行商人へと売られていったようにも思われます。

本コラムの第3回で取り上げた論考『狩猟に対する認識』(山羽 1933)には、「昭和7年度農林省調査の実績から見ても、……全国狩猟免許者7万6千人の狩猟者によって捕獲された鳥獣の総価格は575万円(注1)に上がるのである。狩猟者一人当たり獲物価格は76円余(注2)であって、これは経済的に恵まれぬ現時の山間漁村の狩猟者にとって、狩猟は生活の一資源をなすものと云ふべきである」とあります。

昭和7(1932)年の農林省調査では、捕獲された鳥獣の総価格 575万円、狩猟者一人当たりの獲物価格 76円余とあります。このような農林省調査が存在するのは、伊那地方のような「山肉の流通」システムが列島各地にも存在し、かつその流通の経済行為・データを農林行政が掌握していたからではないでしょうか。昭和7年、日本には約12,300の市町村(総務省HP)があり、その「農林行政網」が列島を覆っていましたので調査力は侮れないと思料されます。勿論、狩猟鳥獣の肉等の流通に関する「資料」の発掘が必須ではありますが。

狩猟鳥獣の「流通価格」

私は北海道庁で鳥獣行政を担当していた時に、野生動物の流通に関する話を耳にしたことがあります。昭和50年代、キツネの毛皮が仲買人に5千円で買い取られていったこと(根室管内)、エゾシカの胎児のはく製が高値で買い求められていたこと(道東地域)、また、捕獲してきたヒグマの収益で家業を続けてこられたこと等々でした。

これらの狩猟鳥獣の流通に関する話が自身の中で氷解したのは、「羆撃ち」(久保 2009)に出会えた時でした。久保さんは、昭和43(1968)年に獲えた鳥獣の流通について詳述されています。なお、久保さんの主な猟場は北海道の小樽市近郊の山々でした。以下に流通に関する箇所を引用しましょう。なお、引用文中のカッコ【 】内の「金額」は、現在の換算額です(注3)。

「猟期間中、2頭のシカを獲り、角が良ければ頭だけで1頭10万円【60万円】ほどで剥製屋に売れた。キツネの皮は1頭1万円【7万円】ほどになった。剥製用のエゾライチョウは牡牝つがいで5000円【3万円】ほどで売れた。」

「羆は毛皮、胆が良ければすぐに売っても1頭30万円【200万円】ほどになる。1年で平均して羆1頭、シカ2頭、キツネ20頭、エゾライチョウ20羽を獲れれば計算では80万円【510万円】ほどにはなる。」

昭和43(1968)年の北海道の主要な狩猟鳥獣について、はく製や毛皮等の「流通価格」を知ることができます。久保さんは狩猟を生業とされておりますが、その背景等がわかる思いがします。

三澤英一さん(1985)は、キタキツネの毛皮価格について、昭和45(1970)年から昭和52(1977)年までは1万円(毛皮商が狩猟者から直接買い上げた「山買い」価格)であったが、53(1978)年から値上がりし56(1981)年には2万3千円、その後は値下がりし1万円と、その価格変動を記しています。昭和40(1965)年代のキツネの毛皮価格は1万円程度で推移していたことが浮かんできます。

さらに、久保さんの著書には狩猟獣の「肉や薬」に関する貴重な記載もあります。

「エゾリスの頭部の黒焼きは、血圧に良いとかで頼まれることも多かった。」

「……肉は自分で消費することも多いが、シカ、羆の肉も現金になりやすい。特に羆の肉は薬のようにして食する習慣から需要が高かったし、腸を10センチほどに切って乾燥させたものは安産のお守りとしてよく売れた。骨はリウマチの薬として粉にして服用する人も多かった。」

このように久保さんの著書からは、狩猟鳥獣のはく製や毛皮、肉、更には薬効としての種々の需要に伴う、多様な「流通」の存在を知ることができます。

なお、本州方面では、サルの頭を黒焼きにして薬として用いた話が各地にあります(岡 2011)。

最後に

狩猟鳥獣の捕獲数の推移は、昭和50(1975)年代以降は、鳥・獣共に一気に急減してゆくことは既に触れたとおりです(よもやまばなし 第2回)(図)。

図 狩猟鳥獣の捕獲数の推移

 

昭和30(1955)、40(1965)年代は、昭和初期からの少なくとも半世紀間に及ぶ高い狩猟圧が終焉を迎える時代でした。長野県伊那地方の「猟師―しし買いー山肉屋」や秋田県の魚屋や肉屋での鳥獣の流通などを視てきた私には、この時代は、狩猟鳥獣が地方の貴重な資源として地域の人々と共にあった最後の舞台(時代)となったように思われてなりません。


注1 「総価格 575万円」を現在に換算すると、約285億円となります。なお、換算に際しては以下を参考としました。

注2 「狩猟者一人当たり獲物価格 76円余」を現在に換算すると、約38万円となります。なお、換算に際しては注1によりました。

注3 換算に際しては以下を参考としました。


引用文献


2020年10月15日公開