シカの脳みそがスポンジ状になってしまう奇病「慢性消耗性疾患(CWD)」。BSE(いわゆる狂牛病)や、人がかかるクロイツフェルト・ヤコブ病などと同じ種類のこの病気が、北アメリカのシカたちの間で流行している。でもそもそもCWDってどんな病気なんだろう? エゾシカ協会理事で北海道大学大学院獣医科学講座の鈴木正嗣さんと、岐阜大学人獣共通感染症講座の杉山誠さんがこのほど発表した最新論文「シカ類のプリオン病――慢性消耗性疾患(CWD)」(『畜産の研究』2003年6月号=養賢堂=収録)から探ってみると……。
エゾシカ協会ニューズレター13号(2003.7.1.発行)から抜粋
CWDはこんな病気
CWDにかかったシカは、体重が減り、〈同じところを繰り返し歩行する、他の動物に無関心となる、頭部や耳がうなだれる、軽い運動失調を呈する、両足を広げて立つなどの行動の異常が見られる〉(杉山)。このような症状は数日間で終わることもあれば、1年以上続くこともあるのだが、〈末期には、過剰な飲水と排尿が見られ〉〈嚥下困難、過剰流涎あるいは異物の吸入により誤嚥性肺炎を引き起こ〉(杉山)して、最後には死んでしまう。
発症するのはおもに成獣で、雄雌にかかわらず感染する。
原因は「プリオン」
症状を見ただけではCWDと断定はできない。解剖して脳を調べる必要があるのだ。診断の決め手は、〈神経細胞および神経網の空胞変性と〉〈異常型プリオン蛋白質の検出〉(杉山)である。
この異常型プリオン蛋白質が原因になって起きる病気は「プリオン病」と呼ばれ、牛のBSE(狂牛病)や、人間のクロイツフェルト・ヤコブ病もこの「プリオン病」の一種である。
このプリオン、生半可な消毒や滅菌が効かない。煮沸くらいでは死んでくれないのである。〈死体の処理および汚染器具等の汚染処理の最も確実な方法は、完全焼却である〉(杉山)。
感染環
BSEでは、異常型プリオン入りの濃厚飼料(肉骨粉の疑いが強い)を食べた牛が次々に犠牲になったが、シカのCWDでは、プリオンを直接食べなくても感染が進むらしい。〈これまでに捕獲・飼育されたエルクにおいて水平感染が観察されており(中略)自然界でもこのような感染経路が成立していると推定される〉(杉山)。水平感染とは、はじめ健康でも病人(シカ)と一緒にいるだけで同じ病気にかかってしまうことをいう。
そしてやっぱり、異常型プリオンを口にしてもシカはCWDに感染する。プリオンは〈中枢神経系以外の組織にも存在する〉(杉山)ので、雌ジカの後産などとして〈体外に排出され土壌、牧草などに付着し〉〈CWDの感染源となる可能性は高い〉(杉山)。
とはいえ、〈感染経路についての詳細もまだ完全には解明されていない〉(杉山)。
人に感染るの?
世界保健機関は〈これまでにCWDがヒトに感染したという証拠はないと結論づけている〉(杉山)。でも〈リスクを完全に否定できないことから、北米の公衆衛生および野生動物管理に関わる機関は、ハンター、食肉業者、剥製業者などにCWDについての注意を喚起している〉(杉山)。
北米での状況は?
北米では養鹿場のシカと、野生のシカの両方にCWDが確認されている。
養鹿場で感染シカが見つかったら、〈ほとんどの飼育群で殺処分あるいは隔離・検疫が実施されてきた〉(鈴木)。
例えば、39の飼育群でCWDが見つかったカナダのサスカチュワン州では〈殺処分数は約8000頭に達し、補償も含むその費用は1900万ドル以上と算出されている〉(鈴木)。
いっぽう〈野生個体群における中心的な発生地は、コロラド州とワイオミング州との州境地域東部(最近はこの地域に隣接するネブラスカ州も含まれるようになった)であり、その面積は約4万平方キロ〉(鈴木)。
しかし〈野生個体群での汚染地域は拡大傾向にあり〉、その一因として〈CWDに汚染された養鹿場が感染源となったケースもあると考えられている〉(鈴木)。
感染率には地域格差があり、1%未満から20%程度だという。
養鹿場での対策は?
〈CWDは致死的な疾病であり、現時点ではワクチンも治療法も存在しない〉(鈴木)。だから養鹿場での対策は、「非汚染」の群れには予防、「汚染」の群れは隔離するか、殺処分するしかない。
といって、いったん「汚染」すると清浄化は至難だ。〈全頭の殺処分後、汚染除去薬剤として次亜鉛素酸カルシウムを散布し、土壌の鋤き返しと一年間の飼育停止を経たにも関わらずCWDが再発した例もある〉(鈴木)。
被害を広げないためには、感染(が疑わしい)シカの輸出入や移動に強力なチェックが必要だ。
野生のシカへの対策は?
〈カナダと合衆国では発生状況のモニタリングを目的とする精力的な調査が始められている〉(鈴木)。とはいえ、治療法の確立していない状況では対策に決め手はなく、〈汚染早期であれば選択的駆除や生息数削減が有効とされているため、その効果の確認が待たれている〉(鈴木)。
ハンターへの啓蒙は?
〈野生個体群の汚染が確認されたウイスコンシン州では、狩猟ライセンスの売上げが前年に比べ22%も減ったと報道された〉(鈴木)。
そこで、カナダやアメリカ政府は〈狩猟者に対しCWD関連の情報を積極的に広報するとともに、ポスターなどを配布して資料の提供を求めている〉(鈴木)。情報公開を進めて狩猟者自身のリスクを避け、野生のシカのモニタリングにもつなげる作戦だ。
日本ではどう対応すべき?
日本でのCWD発生例はない。〈しかし、北米産シカ類の飼育経験を有する施設も皆無ではなく、万一に備えた調査と防備の体制は整えておく必要がある〉(鈴木)。
日本では厚労省が〈米国、カナダ、韓国産のシカ原料について医薬品・医療用具等への使用を認めない旨を通知し(2001年10月)〉(鈴木)、農水省も〈飼育シカの死亡例は原則として全頭検査を行う方針を定めた(2002年11月)〉(鈴木)けれど、〈もう一歩踏み込んだ危機管理策として養鹿場に対するチェックや指導体制(個体の登録や施設面での基準化と検査など)の整備が必要となる〉(鈴木)。
ハンターはどう振る舞うべきだろう? 〈現時点ではCWDに関する狩猟行政サイドの積極的動きはないが、今後の状況によっては体系的な疫学調査の実施と結果の公表が必要になるであろう〉(鈴木)。安心してシカ猟ができるように、ハンター自身もアンテナを張っておきたい。