- あかさか・たけし
- 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。
第7回 江戸初期の日本列島のシカ
本コラムでは、江戸時代初期、我が国には朱印船貿易やオランダ東インド会社により大量の鹿皮が輸入されていたことを視てきました。この鹿皮の大量輸入の背景について、岡田章雄さん(1937)は、「戦国時代から江戸時代初頭にかけて鹿皮の需要(武具、武器その他の軍需用品の資材として)が膨張していた」こと、一方で我が国の「野棲の鹿の数は漸時減少し、地方によりその狩猟は昔に比べて相当困難となって来ていたに相違ない」と推察されています。
そこで、今回は、鹿皮需要の膨張を「輸入鹿皮」で対処してきた「江戸初期の日本列島のシカ」について点描してみたいと思います。
1.中世はシカにとって暗黒時代
先述の「野棲の鹿の数は漸時減少し…」(岡田 1937)とは、16世紀半ばの駿河・今川氏がとった獣皮施策(荒皮、毛皮、滑皮等の国外移出の禁止措置)などから推測されたものでした。
川島茂裕さん(1994)は、中世のシカの生息状況に関して、「日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのかーシカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐるー」の終章で、シカの〝消費〟という観点から以下のように総括しています。
- 中世武士の勃興にともなって、シカは巻狩の絶好の対象となった。同時に、この時代は、鹿皮が武具の用材として需要が増した時代でもあった。
- 勘合貿易・倭寇による輸入対象品目に鹿皮がみられないことは、これまでの時代にシカが減少しつつあったとはいえ、日本国内で供給してきたことを示していると思われる。
- シカの消費に拍車をかけたのが、鉄砲の伝来・普及であった。戦国時代という大量の武具を必要とする時代に、シカが大量に捕殺され、日本列島上から急速にその姿を消しつつあったとみられる。
- 戦国大名たちが、皮革業者などにたいして統制を行ったのは、(中略)枯渇しつつあったシカの捕殺統制・制限という意味をもたざるを得なかったのである。この点で巻狩と武具の用材のために大量に鹿皮を消費した中世は、シカにとっては〝暗黒時代〟であったということもできよう。
- 以上のような鹿の大量消費(需要)を支えるために、朱印船貿易に従事した日本人をはじめ、オランダ人や中国人たちは、(中略)アジア各地から鹿皮の日本への大量輸出に手をそめた。(略)
アジア各地から日本への鹿皮の大量輸出の実態等については、本コラムで取り上げてきたところです。
シカにとって〝暗黒時代〟という中世、その中世に続く近世「江戸時代初期」のシカを視てゆきます。
2.「鹿皮の流通」と関西商人、江戸商人
オランダ東インド会社の平戸オランダ商館は、1635年から1641年の間、タイオワン、シャム及びカンボジアの3地域から鹿皮142万897枚を輸入してきました(第5回コラム参照)。平戸オランダ商館は「鹿皮」を速やかに売りさばいており、輸入鹿皮142万枚余の販売先一覧をまとめたものが表‐1です。
表‐1 平戸オランダ商館の「鹿皮」を購入した購入者氏名、購入回数及び購入数量(枚).但し、購入した期間は1635年から1641年の7年間.
鹿皮の購入者名 等 | 購入回数 | タイオワン産 | シャム産 | カンボジア産 | 合 計 |
---|---|---|---|---|---|
京都商人サカイヤ・リヘエ殿 | 2 | 143,837 | 168,665 | 126,089 | 438,591 |
京都商人ソーエモン殿、シチビョウエ殿 | 4 | 41,080 | 161,506 | 53,893 | 256,479 |
京都商人カナヤ・スケエモン殿 | 2 | 152,240 | 60,417 | 212,657 | |
京都商人ゴザエモン殿 | 1 | 30,880 | 30,880 | ||
堺商人トウザエモン殿 | 2 | 19,215 | 90,300 | 109,515 | |
堺商人ゴロベエ殿、ヤソザエモン殿 | 1 | 40,017 | 40,017 | ||
大坂商人サカタ・ソージロウ殿 | 1 | 81,700 | 81,700 | ||
江戸商人オリヤ・ハンザエモン殿 | 1 | 828 | 828 | ||
サカタ・ソージロウ殿 | 1 | 62,690 | 62,690 | ||
アワヤ・モザエモン殿 他2名 | 1 | 46,060 | 50,370 | 96,430 | |
マチ・ハチロベエ殿 他 | 1 | 15,180 | 75,530 | 90,710 | |
長崎代官[末次]平蔵殿 | 2 | 900 | 900 | ||
その他(氏名記載なし) | ‐ | 241 | 200 | 441 | |
合計 | 571,278 | 532,358 | 318,202 | 1,421,838 |
京都商人や堺商人など「関西」商人8名等による鹿皮の総購入枚数は123万2529枚と、輸入総数の86.7%を占めていたこと、「関西」商人以外では、唯一、江戸商人オリヤ・ハンザエモンがタイオワン産鹿皮828枚を購入していたこと、出自等の不明な購入者(アワヤ・モザエモン他2名及びマチ・ハチロベエ他の2組)は京都や堺の商人である可能性があること等は、前回のコラムでふれたところです。
平戸オランダ商館が7年間に輸入した鹿皮142万枚余の87%が、京都・堺・大阪の商人らに購入されていきました。江戸の商人は、僅か0.06%(828枚)でした。
行武和博さん(1998)は「平戸オランダ商館の会計帳簿」において、同商館の取引相手は地元の平戸はもとより長崎・堺・京都・大坂・江戸などから同地に参集した諸都市の商人たちで、そのなかには毎年商館と取引をする常連の者もみられる、更に、将軍や幕府閣僚をはじめ平戸藩主・近隣の諸大名が、長崎の町年寄り等を介して各種の輸入品を購入している、と記しています。平戸オランダ商館の開放的な商いが推察されます。
1638年度に平戸オランダ商館が輸入した「白糸」は14万3223斤(注1)でした。江戸商人63名は1万6700斤と全数量の11.7%を購入していました。江戸商人の購入量は、平戸商人188名(3万3441斤)、京都商人81名(2万7383斤)、堺商人83名(2万7850斤)に次ぐ購買量となっていました(行武 2000)。江戸商人は、「白糸」については平戸オランダ商館と相当量の取引をしていたことが解ります。
江戸商人は、1635年から1641年の間、平戸オランダ商館から「鹿皮」を殆ど購入しませんでした(表‐1)。この時代は、「戦国時代から江戸時代初頭にかけて鹿皮の需要(武具、武器その他の軍需用品の資材として)が膨張していた」(岡田 1937)とされています。江戸商人は、鹿皮については平戸オランダ商館から取り寄せる必要はなかったものと思われます。
3.江戸商人の鹿皮調達
盛岡藩の鹿皮移出
1970年代、岩手県の南東に位置する五葉山(1351m)には、「北限のホンシュウジカ」が生息していました。五葉山の北西約80kmには県都・盛岡市がありますが、江戸時代の初期、盛岡市の周辺域ではシカ猟が盛んに行われていました。その江戸初期のシカ猟について、榎森進さん(1998)は「近世前期における北奥の狩猟ー盛岡藩領の事例を中心に」と題する論文に詳述されています。以下、要点を記します。
- 盛岡藩は、近世初頭から鹿皮をはじめとする獣皮類の他領への移出を厳禁していた。
- 獣皮類のなかでも、鹿皮は近世初期における盛岡藩の重要な移出品になっていた。
- シカは、藩主の巻狩や家臣等により盛んに捕獲されていた。巻狩に際しては、地域から動員した勢子数は通常8000人から1万3000余人に及んだ。主な巻狩の捕獲数は、1649年12月13日が1620頭、1656年1月10日が1701頭、1658年1月10日が1203頭等とあり、1647年から1680年の間の総捕獲数は9689頭であった。なお、鹿猟は領主権力以外の者は「御法度」であり、密猟者は厳科に処された。
- 盛岡藩の鹿皮の主要な搬出先は江戸であり、主な取引先は革屋「新蔵」とみられた。鹿皮の取引量は、多い年には2000枚以上に達したと推察された。
盛岡藩は、鹿猟を厳禁したうえで藩主等が精力的に鹿狩し、鹿皮を江戸等へ移出してきました。榎森進さん(1998)は、盛岡藩は鹿皮を「藩外に移出し、それで得た利益が藩財政を支える上で大きな役割を果たしていた」と記し、鹿皮が獣皮類の中でも別格であったことが解ります。
「北奥」の最北、蝦夷の松前藩においても鹿皮の移出に取り組んでいました。松前藩の主要な移出品である鹿皮や干鮭等について、「松前町史(通説編第1巻・上)」(1984)に以下のように記されていました。
17世紀末から18世紀初頭にかけて松前藩の財政は窮乏の一途をたどっており、その要因の一端について、「以前には、蝦夷地より鹿皮3万枚もとれ、鮭も8万2千束もとれたが、近年は、いずれも10分の1となり(略)」と記されています。松前藩は、17世紀末より鹿皮や干鮭等の移出「量」の大きな落ち込みに襲われ、加えて、生類憐みの令(注2)により「鷹の買い手もなくなり、往時の鷹の販売収益3千両/年が失せた」ともありました。松前藩は、「1697年及び1702年は幕府の許可を得て参勤を中止した」ほど、窮乏の一途をたどっていました。
松前藩は、先の「松前町史(通説編第1巻・上)」(1984)から、17世紀末を迎えるまでは毎年蝦夷の人々より鹿皮を3万枚ほど買い入れ、それを他藩等へと移出していたことが推察されます。但し、鹿皮の移出先等については定かではありません。
鹿皮の地産地消
江戸時代初期における「江戸のシカ狩り」について、「日本博物誌年表」(磯野 2002)(注‐3、写真)から視てみたいと思います。その一部を以下に記します。
1618年11月26日 | 秀忠、板橋辺で田猟し、鹿31頭を獲る(実紀)。 |
---|---|
1625年11月30日 | 家光、牟礼野城山(現三鷹市付近)で鹿猟、鹿43頭を獲る(実紀)。 |
1633年3月10日 | 家光、小石川に鷹狩。帰途に銃で鹿1頭を撃ち取る(実紀)。 |
1634年3月20日 | 家光、武蔵板橋で鹿猟、13頭を獲る。ついで戸田川で放鷹、鴈15羽を得る(実紀)。 |
1635年10月7日 | 家光、武蔵板橋で鹿猟し、500余頭を獲、大小名および江戸市民に分与する(実紀)。 |
写真 「日本博物誌年表」(磯野 2002)、全938頁。
江戸時代の初期、武蔵の国の「江戸」には相当数のシカが生息していたことが推察されます。武蔵板橋とは、武蔵の国の板橋であり、現代の板橋区と思われます。その板橋での総捕獲数は544頭となり、また東京郊外の三鷹市でも43頭が捕獲されています。
江戸時代初期とはいえ、現・東京都の23区内等で500頭を越える鹿猟には驚きを禁じ得ません。1635年に捕獲したシカは「分与」したとありますが、分与したものは鹿肉と思われます。将軍の捕獲した600頭余の「鹿皮」の行方は記されていませんでした。
更に、将軍による鹿狩は、1725年に以下のように記録されていました(磯野 2002)。
1725年3月27日 | 吉宗、小金の牧(現松戸・三郷・柏の三市にまたがる地域)で鹿狩。丑の刻(午前2時前後)に江戸城を出て両国橋から乗船、小菅で下船して小金に向かう。獲物は鹿800余・猪4・狼1・雉10(実紀、享保日記)。 |
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1726年3月27日 | 吉宗、小金の牧にて鹿狩。(中略)狩は未の刻(午後2時頃)に終わり、戌の刻(午後8時頃)帰城。獲物は鹿470頭、猪12、狼1。御手人数2千人、百姓勢子3万8千人(実紀、享保通鑑、享保日記)。 |
7代将軍吉宗の「小金の牧」での鹿狩が2年続けて行われました。恐らく1725年の鹿狩も1726年と同程度の御手人や百姓勢子が動員されたものと思われます。「人間の鎖」と化した包囲網に追い詰められてゆくシカの群れ、群れが目に浮かびます。1725年の捕獲数は800余頭とありますが、支倉・支倉(2019)は、この狩り(小金原御鹿狩)による鹿の捕獲数は826頭と記しています。いずれにしても、シカの捕獲数の多さには驚嘆させられます。
小金の牧では、2年間で1300頭ほどのシカが捕獲されましたが、これらの鹿皮や鹿肉等の行方は定かではありません。
以上より、江戸商人の鹿皮調達には、他藩から移出された鹿皮及び地元・武蔵の国で捕獲された鹿皮が関与していた可能性が推察されます。
しかしながら、盛岡藩の鹿皮移出数は、「多い年には2000枚以上」(榎森 1998)にすぎませんでした。また、松前藩では、毎年の移出量3万枚とありましたが、その移出先は明らかではありません。江戸の皮革商人においても、京都や堺の商人等と同じように鹿皮の相当な需要があったことと推察されます。江戸商人の鹿皮調達や、東日本の多くの諸藩による鹿皮等移出品などに関する調査等が待たれます。
4.最後にー中世はシカにとって暗黒時代―
川島茂裕さん(1994)は、「戦国大名たちが、(中略)巻狩と武具の用材のために大量に鹿皮を消費した中世は、シカにとっては〝暗黒時代〟であった」と総括されていました。〝暗黒時代〟とは、中世の日本列島のシカは強度の狩猟圧に晒されてきたため危機的な状況下に置かれていたこと、と私は考えました。
中世に続く近世・江戸時代初期のシカの生息状況について、江戸等や盛岡、蝦夷の事例を点描してきました。高槻成紀さん(1992)は、盛岡藩主が実施した17世紀半ばの鹿狩の猟果(2年間で2451頭)から、「現在では少なくとも冬季にはシカのいない奥羽山系に近い盛岡付近でこれだけのシカが獲れたというのは驚くべきことで、いかに盛岡藩に野生動物が豊富であったかを物語っている」と記しています。盛岡藩と隣接する仙台藩や弘前藩、秋田藩等のシカをはじめとした野生動物の生息状況が気になります。平戸オランダ商館の輸入鹿皮142万枚余を購入したのは専ら京都・堺・大坂の商人でした(表‐1)。唐突な物言いではありますが、西日本に生息するシカは、まさに「暗黒時代」であったのかもしれません。一方、平戸オランダ商館の輸入鹿皮を殆ど必要としなかった江戸商人の鹿皮調達の一端より、東日本のシカは「暗国時代」ではなかったように思われてきます。更なる史・資料等調査が必須です。
引用文献
- 榎森 進(1998)近世前期における北奥の狩猟ー盛岡藩領の事例を中心に.pp.101‐183.歴史の中の東北―日本の東北・アジアの東北―.東北学院大学史学科編.河出書房新社.
- 支倉清・支倉紀代美(2019)下級武士の田舎暮らし日記―奉公・金策・獣害対策―.築地書館.
- 磯野直秀(2002)日本博物誌年表.平凡社.
- 川島茂裕(1994)日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのかーシカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐるー.pp.257‐360.帝京史学.第9号.帝京大学文学部史学科.
- 松前町史編集室編(1984)松前町史 通説編第1巻 上.松前町.
- 岡田章雄(1937)近世に於ける鹿皮の輸入に関する研究.社会経済史学.第7巻7号、8号.(本論文は以下によった。『日欧交渉と南蛮貿易』岡田章雄著作集Ⅲ.pp.38‐78.思文閣.1983.)
- 高槻成紀(1992)北に生きるシカたち.どうぶつ社.
- 行武和博(1998)平戸オランダ商館の会計帳簿.pp.401‐427.平戸市史 海外資料編Ⅲ(平戸市編さん委員会編).平戸市.
- 行武和博(2000)1638(寛永15)年平戸オランダ商館の貿易実態.pp.471‐489.平戸市史 海外資料編Ⅱ(平戸市編さん委員会編).平戸市.
(注1)輸入した「白糸」143,223斤 「斤(きん)」は尺貫法による重量の単位で、1斤は約600グラム。従って、1638年度に平戸オランダ商館が輸入した「白糸」143,223斤は、85,934キログラム(約86トン)となる。また、江戸商人63名が購入した「白糸」16,700斤は、10,020キログラム(約10トン)となる。
(注2)生類憐みの令 五代将軍・徳川綱吉(1680~1709年)は「放鷹制度」を廃止し鷹狩りを禁止したため、鷹を多産し移出していた松前藩の鷹の販売収益3千両/年が消滅してしまった。「生類憐みの令」については、根崎光男著「生類憐みの世界」(2006、同成社)をお薦めしたい。根崎(2006)の「はじめに」には、本書では『生類憐み政策とは、放鷹制度の縮小・廃止や鉄砲改め、捨て牛馬・捨子の禁止、さらに犬をはじめとする生類の愛護と食規制、害鳥の駆除、生類の解き放しなどの具体策を指し、これらを国家統治上の施策として捉え、それらの地域社会への影響を意識しながら、この政策の真相に迫りたいと思う。』とある。
(注3)「日本博物誌年表」(磯野直秀 2002、平凡社) 著者は「博物誌」について次のように定義する。「…動植鉱物と人間との関りを記述することと考えている。まずは、衣食住や医療に用いられる品、ついで趣味(園芸・養禽・介の収集)や花見・見世物、文学・美術・史書に現れる動植物、海外から渡来した鳥獣や草木、そして動植鉱物そのものへの興味等々が含まれる。」。年表は、西暦紀元前1万年から始まる。「…縄文時代に入る。縄文時代には狩猟用に犬が飼育された。」とあり、猫の飼育ははるか後と記されている。年表は、1868・慶応4・明治1の12月「この時点で、小石川御薬園・駒場御薬園以外で東京に残っていた旧幕府御薬園等は、…」で終わっている。年表のみで、730頁。引用・参考文献目録等を含めて全938頁。博学多才の博物誌である。
2021年11月4日公開