シカとヒトとの共存の歴史
シカは、とても古い時代から私たち人間の生活と密接な関係を保ってきました。およそ1万年前、それまでシベリアからモンゴル北部にかけての一帯でマンモスやオオツノシカを狩猟して暮らしていた人びとが、南に向けて大移動を開始します。気候変動により、こうした大型草食動物が散開したためです。人びとの一部はアメリカ大陸方面に進み、南米チリの南端にまで達しました。
別の一派は日本列島に渡り、そのうち、いま北海道と呼ばれるこの島にやってきた人びとは、エゾシカ(の先祖種)を狩りながら、生活の資源としていたに違いありません。彼らは現在の日本人の先祖の一部となったと考えられています。
時代が進んでもヒトとシカの関係は濃密なままです。7世紀から8世紀に成立した万葉集に「鹿の為に痛みを述べて」という歌があります。「私の体は、角から耳から爪から毛から肉から内蔵まで利用でき、それら全てを大君に捧げます」という意味で、人びとがシカを余すことなく利用していたことがうかがえます。戦国時代にはシカ革が武具の素材として重用されました。
狩猟漁撈と交易経済の社会を築いた先住民族アイヌは、エゾシカを「ユク」と呼びますが、元は「獲物」という意味の言葉だったそうです。これもまた人びとがエゾシカに依存して暮らしていた傍証でしょう。道内には、鹿追町(アイヌ名=クテクシ。シカ追い柵のあるところ、の意味)、南富良野町の幾寅(ユクトラシペッ。シカがのぼる川、の意味)、門別町の幾千世(ユクチセ。シカの家、の意味)など、シカにまつわるアイヌ語由来の地名がいまも数多く残っています。
いっぽう中世以降の本州地方では、古くからの殺生禁断や放生の思想が、庶民の間にまで肉食タブーを浸透させ、徐々に狩猟は衰退し始めます。江戸時代を迎えると、農地の急拡大にともなって、シカは田畑に出没して「害獣」の色合いを強め、駆除対象に変わっていきます。
明治以降は、北海道を含む全国で一律の狩猟規制が敷かれ、政府による狩猟管理が始まることにになります。