赤坂猛「野生動物問題よもやまばなし」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第4回 軍部への野生動物の供出

「戦争を知らない子供たち」(北山修・作詞、1970年発表)世代の私が、戦時下における「軍部への野生動物の供出」を初めて知ったのは、1987(昭和62)年の晩秋でした。根室支庁経済部林務課の自然保護係に勤務していた当時、懇意になった地元のハクチョウ愛護団体の戦前生まれの会長さんから、「戦時中はハクチョウを捕獲し、肉は塩漬けとし冬期間の保存食に、羽毛は軍部の被服用資材として供出していた」との話をお聞きしました。ハクチョウは狩猟法が定める狩猟鳥獣のリストから大正14年に除外され、それ以降は「保護鳥」になっていたはずなのに(「よもやまばなし」第2回)、戦時体制下で大量に捕獲されていたというのです。

じつはこうした事例はハクチョウに限りません。昭和初期の日本では、多様な鳥獣の毛皮や羽毛資源が重要な軍事物資──「軍皮」──として、広く利用されていました。

 

軍需品にされた野生動物

1931(昭和6)年に満州事変勃発、1937(昭和12)年には日中戦争の開戦、そして1939(昭和14)年には第2次世界大戦が始まり、1945(昭和20)年に日本は敗戦となる、そのような激動の「戦時」のことです。大日本帝国軍の戦線は南洋から北洋、海域から内陸山岳部まで広範囲に及んでいました。化学繊維が普及する以前、兵士の防寒具として動物の毛皮や鳥の羽毛が重要な「軍事物資」とみなされたのです。

そんな「軍皮」を調達するために、軍部は狩猟行政に介入してきます。マタギなど狩猟文化の研究者である田口洋美さんの論文「列島開拓と狩猟の歩み」に掲載された年表「列島の狩猟史」(2000a)は、昭和10年代を「軍部主導による戦時体制下の統制狩猟」と時代区分しています。

1929
昭和4
大日本連合猟友会結成

軍部主導による戦時体制下の統制狩猟

1934
昭和9
ニホンカモシカ、天然記念物に指定。全面禁猟となる。
全日本狩猟倶楽部結成
1937
昭和12
盧溝橋事件、日中戦争に突入。国有林臨時伐採開始
1938
昭和13
「猟友会御殿場支部羽毛皮蒐集内規」
1941
昭和16
対米英に宣戦布告。太平洋戦争勃発
1945
昭和20
太平洋戦争終戦

田口洋美「列島開拓と狩猟の歩み」東北学3.p74.から抜粋、改変。

 

前回、1929(昭和4)年に創設された大日本連合猟友会(と府県猟友会)という全国組織について触れました。田口さんによれば、軍部は「この猟友会組織を在郷軍人会などの力を使って軍部は利用して」「軍、警察、在郷軍人会、銃器弾薬を扱う銃砲商組合、毛皮商、そして末端の狩猟者たちという全国組織、軍用毛皮の収集システムをつくりだして」(田口 2000bc)いきました。

 

軍部が狩猟行政に介入

この勢いは、狩猟統計にも現れています。敗戦直前の10年間の狩猟鳥獣の捕獲数は、概ね狩猟鳥で1500~1900万羽、狩猟獣で100~130万頭と、高い捕獲圧がうかがえます(図−1)。

図-1 狩猟鳥獣の捕獲数の推移(1928年~2016年)

当時の大日本連合猟友会は「昭和10年以降は、軍需用毛皮として野兎毛皮、獣皮、羽毛の収集に協力するようになり、これによる収入もあり財政的に余裕もあった(略)」(林野庁 1969a)とされ、この民間組織がこのころ、軍部に全面協力して「毛皮収集事業」に乗り出していたことが分かります。

昭和15年ごろには「……猟友会も年毎に強化され、また事業も活発となり、ことに軍需用毛皮の集荷及び処理などで事業量が急激に増加し、また軍需用毛皮の貯蔵のための倉庫が必要」(林野庁 1969b)となり、実際に都内に猟友会館が新築されました。戦局の拡大に伴い、軍需用毛皮の増産体制が施設の面でも整備されたのです。国会で国家総動員法(日中戦争の長期化にともない、総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるよう規定)が成立したのは昭和13年。大日本連合猟友会や傘下の地方猟友会もまた、翼賛体制にしっかり組み込まれていました。

 

「野兎毛皮等の収集」

「鳥獣行政のあゆみ」(林野庁 1969)には、戦時中(1938・昭和13年~1945・昭和20年)の『野兎毛皮等の収集』について詳述していますので紹介しましょう。

「戦時中の事業として、まず挙げなければならないことは、野兎毛皮等の軍需資材の集荷である。これは、軍部の要請にもとづいたものであり、会員は、銃後国民の奉公であるとして、これに誠意をもって協力した。当時は、猟用資材である散弾や火薬は、軍需資材の集荷成績によって、その割当が決定された。そのため、府県の狩猟担当課では、狩猟者各人ごとに供出割当数を決定し、割当を完納した者に優先的に猟用資材を配給していた。」(林野庁 1969c)

軍部の要請にもとづき、狩猟者一人一人に野兎の捕獲数を割り振りし、捕獲した野兎の毛皮を軍へと供出させ、その見返りとして猟用資材である散弾や火薬を配給していたことがうかがえます。なお、「供出」とは、(農作物・物品などを)なかば強制されて政府に差し出すこと、と辞書(学研現代新国語辞典・第5版)にあります。この「供出などの一連の流れ」には、先述した「軍用毛皮の収集システム」(田口2000c)の関与等が想起されます。

ここで、地方支部(茨城県猟友会)の戦時中の活動について以下に紹介しましょう。

「大東亜戦争開戦以降は、軍の要請による、のうさぎの毛皮や、捕獲した野鳥の羽毛の供出は、支部組織の活動によって成果をあげた。戦争がし烈化するに伴い猟用資材は特に不足し、散弾や、火薬その他の猟具は供出した毛皮や、羽毛の量によって軍から連合猟友会各支部を通じて各会員に配分されたので、猟用資材の乏しいその当時は、供出業務は重要視された。」(大日本猟友会 1984)

 

責任制割当の導入

さらに、野兎等毛皮の供出数量についての記述を見ましょう。

「そのようなことから、野兎の捕獲は、平年時50万ないし60万頭であったものが、責任制割当により捕獲数は100万頭にも達し、野兎による農林業被害は全くなくなった。昭和20年9月の総会では、野兎毛皮約60万枚、猪皮約8万枚、鹿皮約1千枚、羽毛約5000貫と報告されている。」(林野庁 1969c)

図-2 昭和10年代のノウサギの狩猟及び有害駆除による捕獲数(全国)。「狩猟数」は、「北海道の猟政」(北海道 1969).p65,66.より引用。「有害駆除数」は、「鳥獣行政のあゆみ」(林野庁 1969).p520.より引用。

「野兎」の捕獲数は、責任制割当の導入により平時の50~60万頭から一気に100万頭に達したとあります。昭和10年代、ノウサギの狩猟及び有害駆除による捕獲数は図―2の通りです。最多捕獲数は、1942(昭和17)年の95万4千頭、また狩猟では1942(昭和17)年の89万4千頭、有害駆除では1937(昭和12)年の10万2千頭となりました。先に「責任制割当により100万頭」とありましたが、これに応じるために狩猟及び有害駆除によるノウサギの毛皮が総動員されたことなどが推測されます。なお、1943(昭和18)年及び1944(昭和19)年の捕獲数は、戦局の影響でしょうか、いずれも「空白」でした。

また、1945(昭和20)年9月の大日本猟友会の総会では、軍部へ供出した野兎や猪等の数量を報じていますが、イタチやテン、リス、タヌキ、キツネ等の狩猟獣の毛皮供出に関しても気になるところです。

1935(昭和10)年以降の軍需用毛皮の収集事業は、狩猟鳥獣に高い狩猟圧をかけ続けてきたことが推測されます。毛皮等収集事業における狩猟鳥獣毎の詳細な「統計等資料」を視たいものですが、1940(昭和15)年(頃)に新築した猟友会館は、1945(昭和20)年3月に戦災に会い全焼し、猟友会に関する資料や格納していた軍需用毛皮等のすべてが焼失してしまいました(林野庁 1969b)。

このため、私は「軍部主導による統制狩猟」を統括してきた軍部の狩猟行政資料に期待したいのですが、最近の報道では、「日本の政府と軍部は敗戦が決まった直後から戦争関連資料の多くを焼き尽くした」といいます(毎日新聞2020年8月13日)。公文書は国民の財産のはずですが、当時の軍部の狩猟行政資料には、管見の限りいまだ出会えていません。

 

飼い犬・飼い猫の供出を強要

1944(昭和19)年10月には首都圏で飼い犬の供出が始まり、やがて全国に拡大して、供出犬の毛皮革が軍用の航空帽や航空靴、手袋の材料にされていました(仁科 2014)。先述したように、当時の主な「軍皮」はウサギの毛皮でしたが、戦争の末期にそれが不足しだすと、国民はコートなどの毛皮衣類はもちろん、しまいには犬・猫の供出まで求められるようになります(三澤 1985)。

戦時下とは、野生鳥獣、そして民間の毛皮や飼い犬・猫の毛皮等資源が全国各地から供出され、軍部に収納されていった時代といえましょう。

次回は、戦後(昭和20年以降)の狩猟鳥獣と社会の関りを点描します。


引用文献


2020年8月25日公開。イラスト作成協力/平田剛士