赤坂猛「野生動物問題よもやまばなし」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第8回 昭和30、40年代の狩猟鳥獣と社会(その1)

戦後の昭和20年代に続く「昭和30(1955)、40(1965)年代」の社会は、経済成長の進展とともに深刻な公害問題が都市部や列島各地の工業地帯を蝕むとともに、戦後の国有林の拡大造林施策に絡むカモシカによる林業被害問題が惹起してきた時代でもあります。

まず、この時代の狩猟鳥獣の捕獲数の推移を視ましょう(図)。狩猟獣は、昭和30年の130万頭から漸減してゆき、昭和40年以降は100万頭前後で推移していきます。一方、狩猟鳥は、昭和30年の800万羽より漸増してゆき昭和35年には1000万羽超へと、その後は1000~1300万羽の中で推移してゆきます。続く昭和50(1975)年代以降は、狩猟鳥獣の捕獲数は鳥・獣共に一気に急減してゆくことは既に触れたとおりです(よもやまばなし 第2回)。

今回は、昭和初期からの半世紀間に及ぶ高い狩猟圧が終焉を迎える昭和30(1955)、40(1965)年代の社会を点描してゆきます。

図

図 狩猟鳥獣の捕獲数の推移

狩猟法の大改正、鳥獣保護法へ

1895(明治28)年に制定された狩猟法は、約70年後となる1963(昭和38)年に大改正され、「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」へと改称されました。新たな名称は、「積極的な鳥獣の保護という意味合いからその内容に即した表現」(林野庁 1969)となりました。

戦後直下の1947(昭和22)年、狩猟法施行規則の改正等((よもやまばなし 第6回)がなされたものの、その後、野生鳥獣の減少傾向に歯止めがかからず、この際野生鳥獣の積極的な保護繁殖をはかるための強力な施策を講ずる必要があるとされました(林野庁 1969)。そこで、1961(昭和36)年、農林大臣は鳥獣審議会に「野生鳥獣の保護と狩猟の適正化に関する方策」について諮問し、翌1962(昭和37)年の答申を経て、狩猟法の抜本的な改正へと至りました。

主な改正事項は以下の通りです(林野庁 1969)。

狩猟法が70年ぶりに大改正された背景には、「野生鳥獣の減少傾向に歯止めがかからなかった」(林野庁 1969)ためとは、先にも触れました。朝日新聞の天声人語(1963(昭和38)年2月5日)には、この度の大改正について「……国会に提出することになったのは、おそまきながら新しい光明だ」と賛意が寄せられていました(荒垣 1974)。野生鳥獣の保護に向けた新たな取り組みには、世相の後押しもありました。

次に、この時代の野生鳥獣と社会の関り等について視てゆきます。

長野県伊那谷の野生動物と山肉屋

「狩りの語部」(松山 1977)

「狩りの語部」(松山 1977)は、長野県の南に位置する伊那山地を猟場とする猟人たちからの聞き書きや当地に伝わるオオカミ伝承などをとりまとめた書です。著者の松山義雄さんは伊那山地に40年余通い続け、多くの猟人から野生鳥獣等に関わる話を採集してきた、と「あとがき」にあります。また、著書の帯には「伊那の谷々に勇名をはせた猟人たちの生きざまをたどって、狩りにまつわる山国の生活の変遷を描き……」とあります。

松山さんが採集された「語部の話」を紹介しながら、論を進めてゆきたいと思います。なお、語部の引用文中の【】内の「金額」は、現在の換算額です(注2)。

山肉としし買い

大正7,8年頃の山肉の値段の良かった時代にカモシカの肉は6貫(22.5kg)を5円【7万7千円】の割でしし買いが買ってくれた。カモシカは大きなもので8貫(30kg)、普通は22kgから27kg位の目方のものだから、1丸(筆者注;1頭)で5円になったわけである。(松山 1977)

まず「山肉」「しし買い」を説明しましょう。「山肉(さんにく)」とは、しし(シカ、イノシシ、カモシカのこと)及びしし以外の山の動物(クマ、サル等)の肉の総称です。また、「しし買い」とは、山のけものの仲買人のことで、猟師たちは獲物があれば「しし買い」の所へ持ち込んで、お金に換えてもらっていました。「しし買い」商人は、伊那地方の遠山谷(筆者注;下伊那郡)と三峰川谷(筆者注;上伊那郡)にいました(松山 1977)。

約一世紀前、伊那地方では、猟師が獲らえたカモシカ1頭が7万7千円で「しし買い」に買われていきました。

 

「狩りの語部」には、猟師(の獲らえた山肉)としし買いの関係について、1897(明治30)年から1975(昭和50)年までの語り(事例)が詳しく記されています。

山肉屋

1975(昭和50)年 下伊那郡・遠山谷の山肉屋で売りだされたクマの小売値段は、肉は100g当たり200円【610円】、熊の胆(干しあげたもの)は1匁(3.75g)当たり15,000円【46,000円】、そして熊皮(体重75kgのクマ)は15万円【46万円】である。(松山 1977)

まず、「山肉屋」とは、山肉を売買する店舗で、遠山谷に所在する「山肉屋」は煮売屋(注3)を兼業していたそうです。山肉とは、しし(シカ、イノシシ、カモシカのこと)やしし以外の山の動物(クマ、サル等)であることは先述しましたが、このような山肉の専門店が存在していたことに関心が注がれます。山肉が、猟師からしし買いへ、そしてこの山肉屋へと流通してゆく、一連のつながり・流れが浮かんでくるからにほかなりません。

さて、1975(昭和50)年に下伊那郡の山肉屋で売り出したクマ1頭の総売上額を試算しますと、肉は、体重75kgの6掛け(注4)の45kgで売上額は274,500円、熊の胆は、干しあげたもの75g(注4)で920,000円、そして熊皮の460,000円で総額は1,654,500円となります。遠山谷の「山肉屋」は、クマ1頭で相当な「売上」になったことがわかります。

また、クマは、獲らえた猟師にとっても重要な収入源となる「山肉」でした。1935(昭和10)年の上伊那郡・長谷村の猟師が獲ったクマ1頭は62円【31万円】の収入となり、猟師の一冬の生活が保障された(松山 1977)そうです。

なお、イノシシ肉については、南アルプス山麓では「猪の肉を食わぬうちは、うまいものを食ったと言うな。」と言われてきたそうです。そのイノシシ肉(100匁(375g)当たり)の小売り相場は、大正7,8年頃は773円、昭和24年は4,961円、そして昭和50年は遠山谷では1,373円、静岡県水窪あたりでは1,526円(松山 1977)とあります。イノシシ肉は伊那地方の人々の、猟師の、そしてしし買い及び山肉屋の貴重な山肉・商品であり続けてきたことが伺われます。

「狩りの語部」には、伊那地方での明治から大正、そして昭和50年頃までのクマやイノシシ、オオカミ等に関する話が収められていました。そのなかで、「山肉」や「山肉屋」、「しし買い」商人に関する猟師の語りがカモシカやクマ、イノシシとともに記されていました。伊那地方の猟師が獲らえた「山肉」は、まず地域の仲買人である「しし買い」商人に買い取られ、「山肉屋」で地域の消費者に売られてゆく、そのような『山肉の流通』が浮かんできます。

伊那地方の『山肉の流通』は、他の地方では如何でしょうか。次回は、東北地方などの野生動物と社会を視てゆきます。


注1 禁猟区制度とは、「鳥獣の繁殖保護のため、又は土地所有者の出願その他の理由」により、地方長官が10箇年以内の期間をもって「禁猟区」を設けることができるとしたものです。本制度は、1901(明治34)年の狩猟法の改正により創設されました。

注2 換算に際しては、「物価の文化史事典」(森永卓郎監修.展望社.2008.)の「東京・公立小中学校教員の初任給と制度変遷」(p398,399)によりました。

注3 煮売屋(にうりや)とは、江戸時代の日本に存在した煮魚・煮豆・煮染など、すぐに食べられる形に調理した惣菜を販売する商売のこと(Wikipedia)。

注4 クマの肉及び熊の胆の重量については、以下の事例を参考にしました。「昭和10年 上伊那郡・長谷村、クマ1頭からは、熊の胆は干しあげて20匁(75グラム)あれば7,8円になる。……肉の正味が全重量の6分として12貫(45kg)で24円になる。……」(松山 1977、p14)


引用文献


2020年10月1日公開。イラスト作成協力/平田剛士