伊藤英人の狩猟本の世界
288.『死と病と看護の社会史』新村拓著、法政大学出版局、1989年
日本の医療と看護の歴史。死の穢れを誰が受け、どう処理するかが大きな問題であった。
高貴な家では末期患者を「無常院」と呼ぶ離れ小屋に移す。病人自身は心を落ち着かせ、自己の死を受け入れるための時間を得る。家族のほうも、死が近いという現実を受け入れていく。
障害をもって生まれると、親がタブーをおかした報いとみなされたり、そもそも貧しくて育てられなかったりして、障害者はとてもひどい扱いを受けていた。
医療の歴史も興味深い。一般人は貧しくて医療など受けられず、貴重な医者も評判が下がるのを嫌って重病人を門前払いしていた時代もあるものの、基本的には貧富の差なく診て、高い報酬を要求しない心得が残っている(実際はどうだか)。
最期は基本的には家で看取り、火葬もしなかったため、町に死臭が漂うほど死体が身近な存在であった。現在でも、なるべく家族が自宅で看取り、立ち会うものだとする文化が残っている。一方で、死を遠ざける傾向は増している。
刊行当時でも、死の経験、死体との交流の少なさを心配しているが、状況はよくなっていないと思われる。死を肌で感じ、受け入れる大切な時間は残したい。ゲームやバーチャルでは学べない、リアルな部分である。
これをふまえたうえで、狩猟動物やペットの殺処分について考えたい。現在、日本では「なるべく恐怖を感じさせず苦しませないやり方」が奨励されており、銃での即死、ガス死、安楽死が行われている。人間が死を避けるあまり、こうした自然界では起きえない「不自然な」結論に至っているように思えてならない。動物の死についても、なるべく死から目を背け、直視しない人間社会の延長上にあるように感じる。日本式の例として供養があるが、死生観はそれだけではない。狩猟者は死に触れる機会を生かし、敬虔な心を育ててほしい。