赤坂猛「江戸初期のシカ皮交易」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第2回 シカ皮交易と梅花鹿の絶滅

1999(平成11)年9月、私は台湾で開催された「第4回日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナー」において、台湾の梅花鹿が絶滅したのは江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因、と知らされました。この「江戸初期のシカ皮交易」が取り上げられた『論文』を手にしたのは2001年のことでした。

1 江戸初期のシカ皮交易

その論文は、川島茂裕さんが学術誌『帝京史学(第9号)』(1994年、帝京大学文学部史学科)に発表された100頁超の労作「日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのか—シカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐる—」です。今回は、この論文に依拠しながら、「江戸初期のシカ皮交易」の実像に迫りたいと思います。以下、断りのない引用は川島論文から、また、江戸期史料についても川島論文からの孫引きです。

論文は、古代におけるシカの消費(第1章)や中世における武士の巻狩とシカの関り(第2章)、そして戦国時代の鹿皮の大量消費とその統制(第3章)へと続きます。「戦国時代という大量の武具(注1、筆者)を必要とする時代に、シカが大量に捕殺され、日本列島上から急速にその姿を消しつつあった」ことから、江戸時代初期には「当時、シカが大量に生息していたアジア各地から鹿皮の日本への大量輸出」が行われました。その鹿皮の日本への大量輸出について、「第4章 朱印船貿易の時代と台湾・東南アジアの鹿皮」として、台湾、フィリピン、タイ及びカンボジアごとにシカの生息状況、狩猟の実態及び鹿皮の輸出量などについて記しています。

川島さんは、上記の「第4章」の前提として、「本章では、近世初頭の大航海時代、朱印船貿易の時代(注2、筆者)における日本への鹿皮の大量輸出の実態を解明することを課題」とし、対象地域については「関係資料が比較的訳出・公刊されている台湾、フィリピン、タイ、カンボジアの諸地域」にした、と記しています。

2 台湾のシカ皮交易

表‐1は、1624年から1639年の間における台湾から日本への鹿皮輸出量です。この江戸時代の初期、日本は台湾から総計329,075枚の鹿皮を輸入していました。鹿皮の輸入量には、1625年の200,000枚から1634年の75枚と大きな開きがみられるほか、1627年から1629年の3年間及び1631年、1632年など輸出実績のない『年』が7年見られます。

表‐1 台湾から日本への鹿皮輸出量(枚数)(川島 1994).

西暦年 輸出量 典拠 備考
1620      
1621      
1622      
1623      
1624 18,000 岩生  
1625 200,000 村上 「年々二十万枚」とある
1626 46,000 村上  
1627      
1628      
1629      
1630 約700 永積  
1631      
1632      
1633 約50,000 永積  
1634 75 中村  
1635 10,000 中村  
1636      
1637 4,000 中村  
1638      
1639 300 中村  
1640      
  • (注)典拠は以下の通り。
  • 岩生成一(1985)朱印船貿易史の研究.吉川弘文館.他
  • 村上直次郎抄訳・中村孝志校注(1970)バタヴィア城日誌1.東洋文庫.他
  • 永積洋子(1969)平戸オランダ商館の日記.岩波書店.他
  • 中村孝志(1953)臺灣における鹿皮の産出とその日本輸出について.pp.101‐132.日本文化.33.

また、1624年の鹿皮輸出量18,000枚とありますが(表‐1)、これについては、1624年1月3日付けで記されたオランダ東インド会社(注3)の一般政務報告に以下のように記されています。

タイオワン港(注4;筆者)には、毎年日本船が鹿皮を買い入れるために来航するが、それは同地でかなり多量に産出するものである。…日本船は、18,000枚の鹿皮や、その他若干のシナ商品を…積み込んで、再び日本に帰航した。

オランダ東インド会社の一般政務報告には、「日本船は、18,000枚の鹿皮を…積み込んで、再び日本に帰航した。」と明記されています。また、鹿皮は「同地でかなり多量に産出するもの」とあることから、台湾に生息するシカの生息数は相当に多かったことが推測されます。17世紀初頭に渡台した宣教師による記録に「野原をうろついて居る数百時には数千もの鹿がこの罠にかかると竹がまっすぐに跳ね返り、動物は脚をとられる。原住民は近づき、それを槍で殺す。この方法で毎年数千が捕らえられる。」とあり(中村 1953)、17世紀初頭のシカの豊かな生息実態が推測されてきます。

なお、1624年1月に記され本報告には、「毎年日本船が鹿皮を買い入れるために来航する…」とありますので、鹿皮の輸出は1623年以前にもあったと思われます(が、その輸出年次や数量などは定かではありません)。

更に、オランダ派遣艦隊司令官の記した1622年7月30日の日記には以下のように書かれています。

この港(台湾・安平)は日本人が毎年ジャンク船(注5、筆者)2,3艭にて渡来し、貿易を行う所なり。(中国人の言によれば)この地には鹿皮多く、日本人はこれを原住民より購入せり。

1622年に記された日記には、日本人が『毎年』ジャンク船で渡来し鹿皮を原住民より購入する、と書かれています。日本人が購入した鹿皮の枚数や年次等は不明ですが、鹿皮交易の紀点年は1622年以前へと遡ってゆきます。

さて、1625年の鹿皮輸出量は20万枚(表‐1)と最多の枚数となっていますが、これは「バタヴィア城日誌」の1625年4月9日に「聞くところによれば鹿皮は年々20万枚を得べく、乾燥したる鹿肉および干魚は多量にあり」と記されています。日誌には「年々20万枚」とありますが、この「年々…」が「いつ」であったかは明らかにされていません。

「第4節 鹿皮の取引量」の小括として、川島論文は「台湾では、シカが多量に生息し、それに目をつけた日本人・中国人・オランダ人たちは、鹿皮を1620年代には『年々20万枚』といわれる程、多量に日本に供給していたことを明らかにした。」と記しています。そして、最終の「第5節 シカの減少」へと続きます。

3 台湾の「シカの減少」

台湾の鹿皮輸出は1639年の300枚が最後となっています(表‐1)。1640年のシカの生息実態や狩猟規則について、「バタヴィア城日誌」の1640年12月6日に以下のように書かれています。

鹿は3年間、絶えず捕獲せるため非常に減少し、6年間には再び元の数に達せざるべし。よって一致の決議により、一ヵ年間穴を掘り網を張ることを禁じ、住民が貪欲なる中国人のため搾取し尽さるるに至らざらんことを期せり。

絶えざる狩猟圧によるシカの著しい減少に伴い、「落とし穴猟」を用いたシカの捕獲を1年間、禁ずる措置を講じたことが記されています。狩猟法については、「三方法―わな(陥穽、ククリワナ)、槍、弓矢―を用いる」(中村 1953)ことから、わな(ククリワナ)、槍、弓矢については引き続き認められたものと思われます。

なお、狩猟法について、川島(1994)は「これによって、落とし穴・槍・弓矢の三方法で鹿狩を行っていたことがわかる」と記していますが、それは上記・中村論文(1953)の誤読と思われます。

さて、この5年後の1645年、鹿猟のために準備した免許状400通のうち36通が売れ残ってしまいました。そのことについて、「バタヴィア城日誌」の1645年3月11日に以下のように書かれています。

その原因は鹿数の減少にあり。20年来毎年5万、7万ないし10万頭を捕獲せしめるため著しく減少し、僅かに少数空地に生存するものあるのみとなりたれば、カロン君は2年間狩猟を行い、第3年は休止するにあらざれば全滅するに至るべしと思考せり。右のごとく減少したるがため鹿皮5万枚を得ること能わず。

「20年来毎年5万、7万ないし10万頭を捕獲せしめる」とありますが、『20年来』については表‐1の1624年以降を指しているように思われます。また、1623年以前にも鹿皮が日本に輸出されていたことは前述したとおりです。台湾では、17世紀の初期、シカは20年「超」におよび狩猟圧がかけ続けられたことが伺われます。そのため、近年(1645年?)のシカの生息状況は、「僅かに少数」のシカが「空地に生存する」のみとなってしまったようです。

台湾長官のフランソアカロン氏(中村 1953)は、現行のシカの狩猟制度を見直し3年目ごとにシカ猟の「休猟年」を設けることにより、シカ全滅の回避を提言している様子が伺えます。

これまで視てきた江戸時代初期の台湾のシカと社会の関りに関する論文(川島 1994)は、私が1999(平成11)年9月に台湾で開催されたセミナーで知らされた「台湾の梅花鹿が絶滅したのは江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因」を、裏付けているものでした。台湾のセミナーから2年間を経ずして、「江戸初期のシカ皮交易と梅花鹿の絶滅」に係る論文に出会うことができました。

私は、新たな論文や著書に誘われながら「台湾のシカ皮交易の旅」を続けます。


引用文献


(注1)鹿皮を用いた「武具」 『毛皮』の用途としては、敷皮、腰当(尻皮)、馬の鞍の下に敷くもの、むかばき(筆者注;武士が騎馬の際に穿くオーバーズボン状の衣類)などである。また、『革具』の用途としては、甲冑(筆者注;武士が戦時に身に着けたよろいとかぶと)、弓具、装剣具、その他武器・武具に多用されてきた(岡田 1983)。なお、「むかばき」の一腰(一着)をつくるには鹿二頭分の毛皮を必要とした(西村 2003)。

(注2)朱印船貿易の時代 朱印船貿易については、本連載コラム(江戸初期のシカ皮交易)の「第1回 日本・台湾国立公園等セミナーと梅花鹿」をご覧ください。

(注3)東インド会社 17世紀に西欧諸国が東洋貿易のために設立した特許会社。イギリスは1600年、オランダは1602年、フランスは1604年に設立。香料その他の物産を輸入することが主な目的であったが、商権拡大のため植民地経営にも従事(以上、広辞苑・第二版)。オランダ(東インド会社)は、「1623年に台湾島の南部、安平(タイワオン)に商館を置くと、島の開発に着手」(上田 2005)していく。主に、日本への鹿皮輸出に携わっていった。しかし、「1662年、25,000の将兵を率いて台湾に移ってきた鄭成功により、オランダ人勢力は台湾から撤退」(上田 2005)し、40年余の占領統治に終止符が打たれた(松井 2018)。なお「バタヴィア城日誌」(1621−1808)は、オランダの植民地バタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)で同会社が拠点とした商館(バタヴィア城)における記録。

(注4)タイオワン港 タイオワン(現在の台湾の台南市・安平)の港(図の)は最も良好な船付き場であり、「その湾に於いては各種の家畜、あまる程の魚ならびに鹿皮多数をえられるだろう」(中村 1953)と記されている。

台湾島

(出典・中華民国内政部営建省刊行物「台湾の国家公園」1987)

(注5)ジャンク船 中国人が沿海・河川などで乗客または貨物を運送する、特殊な形状を持つ船。黒茶色の原始的な 帆を張る100~300トンのもの。舷が高く水上に出ている(以上、広辞苑・第二版)。江戸時代初期、「日本ジャンク船」はシナ・台湾・フィリピン・タイ等との交易のために東シナ海や南シナ海を広く航海していた。当時、日本人がジャンク船を所有・運航し、朱印状を携えて交易等を行っている船を、オランダやポルトガル等は「日本ジャンク船」と呼称していた。「日本ジャンク船」の動向について、オランダ東インド会社の報告書に以下のように記されていた。

以上は、岩生(1985)の著書「朱印船貿易史の研究」からの引用であるが、本書には「ジャンク船の交易」が多数例記されている。


2021年6月2日公開