赤坂猛「江戸初期のシカ皮交易」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第3回 東南アジアのシカ皮交易

1999(平成11)年9月に台湾で開催されたセミナーで、私は「台湾の梅花鹿が絶滅したのは、江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因」と知らされ、2001年には、それを裏付ける論文(川島 1994)と出会うことができました(以上、第2回コラム)。その論文の第4章には、「朱印船貿易の時代と台湾・東南アジアの鹿皮」とあり、台湾、フィリピン、タイ及びカンボジアごとにシカの生息状況、狩猟の実態及び鹿皮の輸出量などについて記されています。

今回は、東南アジアのシカ皮交易を概観したいと思います。表‐1(川島 1994)は、1613年から1639年の約25年間におけるタイ、カンボジア、フィリピン及び台湾から日本に輸出された鹿皮の数量を示したものです。なお、台湾の輸出数量は、第2回コラムで詳述したところです。

1 タイの鹿皮交易等

タイの鹿皮輸出は、1613年の120,000枚から1639年の150,000枚までと、他地域と比べ多くの暦年で記録されています。タイでの日本人の鹿皮取引についてオランダ人宣教師が著書「新旧東印度誌」に、以下のように記しています(川島 1994)。

日本人は常に当国(タイ;筆者注)と大なる取引を遂行して、既に古い時代から当地に一大日本町を造ったが、それは全く、当地から日本に、盛に鹿や水牛及び鮫の皮を輸送するからである。…日本人は毎年同地に、彼等のジャンク船(注1)で多額の銀資本をもたらし来り、日本おいて需要大にして利益も大なる鹿皮や他の皮革を多量に購入する。

タイ・アユタヤの日本人居住区には最盛期には1000~1500人と推計されています(永積 2001)。その「日本町」を介した1613年の鹿皮輸出量120,000枚(表‐1)に関して、当地のオランダ商館員の報告書(1613年4月24日)に以下のように記されています(岩生 1985)。

本年当地に来航した日本人などは、すでに種々の商品の他、鹿皮を12万枚購入したので、従来に比して非常に高値を支払わなければならなくなった。日本人などの当地に来着する前は、100枚につき35匁(注2)ないし40匁の上等品が、90匁、100匁あるいは110匁に騰貴したが、これは箆棒な高値である。

このような機先を制するような「商い」については、蘭領東インド総督の報告書(1624年1月3日)にも、以下のように記されています(岩生 1985)。

タイ在住日本人は、帆船ムイデンの来着に先んじて間に合うように、急いで鹿皮16万枚、ならびに蘇木20万斤(注3)を非常に廉価に買い占めて、ジャンク船に積み込んで日本に送ったので、ムイデン船は不良皮8,000枚以上は入手できず、彼らは商利を失った。

今から約4世紀を遡った東南アジア・タイでの「日本町」による鹿皮の買い占めの様子には、関心が注がれます。なお、「帆船ムイデン」は、オランダ東インド会社の船と推測されます。

1620年代前半には、1622年の300,000枚、1624年の320,000枚、そして1625年の332,000枚、と30万枚超の大量の鹿皮輸出が続いています。この時代のタイから日本に輸入される商品および年間の需要量について、オランダが受け取った1622年10月14日付けの報告書には以下のように記されています(岩生 1985)。

(タイ)は奇麗で、米や他の穀物も豊饒で、家畜や野獣が夥しい。…特に鹿や鶏は毎年10万捕獲される。これはわれわれが同地で貿易しているように、皮を取るためで毎年30万枚以上諸国民によって日本に輸出される。

1620年代の前半の鹿皮輸出量(表‐1)は、正に上記の報告書の通りであることが解ります。続く1630年代には、10万から20万枚超の鹿皮輸出量が記録されています。

結局、タイからは、江戸時代初期の朱印船貿易の間、総数量1,769,595枚~1,786,595枚の鹿皮が日本へと輸出されました。この総数量は、台湾から日本に輸出された鹿皮の総数量329,075枚の5.4倍にもなります。

表‐1 タイ、カンボジア、フィリピン及び台湾から日本への鹿皮輸出量(川島 1994).

西暦年 タイ カンボジア フィリピン 台湾
1613 120,000      
1614        
1615 9,000      
1616 9,000      
1617 37,000      
1618 950   6万~8万  
1619 1,350      
1620     4,180  
1621        
1622 300,000      
1623        
1624 320,000     18,000
1625 332,000     200,000
1626       46,000
1627        
1628 12,000      
1629        
1630       約700
1631        
1632        
1633 10,115     約50,000
1634 約214,700 約40,000   75
1635 10,000     10,000
1636 103,480 約193,500    
1637 14万~15万7千 123,000 3,054 4,000
1638        
1639 150,000     300

 

2 カンボジアの鹿皮交易等

カンボジアの鹿皮輸出は、1634年の約40,000枚、1636年の約193,500枚、そして1637年の123,000枚と記録されており(表‐1)、鹿皮の総輸出量は356,500枚でした。

カンボジアからの鹿皮輸出は1630年代の半ば以降に集中していますが、そのことについて川島(1994)は、「現在、容易にみることができる史料の限りでは、同地の鹿皮を日本へ輸出しはじめたのは、それほど早くはない。このことに関連する史料が散見されるのは、1630年代のなかごろ以降」と記しています。

カンボジアでの日本人の鹿皮等の交易活動について、オランダ東インド会社の特派使節の日記に以下のように記されています(川島 1994)。

(1637年)3月3日、デビニヤ殿…から聞くところによれば、日本人達が交趾支那から、当地(カンボジア;筆者注)の色々な日本人と支那人に書面を送って、可なりの数量の鹿皮と主要な鮫皮を買い上げんことを依頼し…。

「交趾支那」は現在のベトナム社会主義共和国の南部に相当する地域です。そこの日本人からカンボジア在住の日本人等に相当量の鹿皮等の「買い漁り」を依頼している様子が伺えます。しかし、既に1636年には鎖国政策として「朱印船貿易と日本人渡航の禁止」「ポルトガル船・中国船の長崎着岸」「オランダ船の平戸着岸」が発令されており(水本 2008)、日本人によるカンボジアでの鹿皮交易は、1630年代の半ばからの僅か数年間で終焉を迎えてしまいました。

3 フィリピンの鹿皮交易等

フィリピンの鹿皮輸出は、1618年の60,000枚から80,000枚、1620年の4,180枚、そして1637年の3,054枚と記録されており(表‐1)、鹿皮の総輸出量は67,234枚から87,234枚でした。

1618年の鹿皮輸出数に関する史料として、川島(1994)は、フィリピンの事情に精通していたとされるミゲル=デ=ロアルカが1618年にフィリピン総督へ報告した事項から、以下のように引用しています。

パンシルガン州にては野猟豊富にして、僅かに20リーグ(注4)の範囲にても、年々鹿が6万匹、あるいは8万匹も多数捕殺される。土人は鹿皮を貢税とする。しかるに日本人が種々の目的のためにこれから良質の鞣を作るので、鹿皮貿易は日本とって多額の利益の源泉である。…州内には良港がある。一はアゴー港にして、俗に「日本の港」と称している。それは日本人が当群島にて占拠した最初の港で、わが国民は同地で初めて彼等を見たのである。

上記報告の「年々鹿が6万匹、あるいは8万匹も多数捕殺される」と、冒頭に「年々」とあることから、1617年以前においても6万頭から8万頭の鹿皮輸出があったものと推測されます。

一方、フィリピンの鹿皮交易が1604年以前へと遡ることを、1604年にフィリピン総監がエスパニャ皇帝に宛てた以下の書簡より知ることができます(川島 1994)。

彼等(日本人;筆者注)はこの地方(フィリピン;筆者注)に来航して商売を営む。
乃ち小麦粉、ハム、鮪、釘、鉄、武器、その他の貨物を齎らし、之を売って利を収める。
帰国の際に積み込む貨物は鹿皮、中国製品などである。現在に至る迄常にそれを行って来ている。

1604年の書簡には、日本人は「現在に至る迄常に」帰国に際しては鹿皮等を積み込む、とあります。江戸幕府の開幕は1603年ですから、フィリピンの鹿皮交易は戦国時代へと遡ると思われます。永積(2001)は、鹿皮は16世紀末から17世紀はじめにはフィリピンから大量に輸入されているらしい、と記しています。

フィリピンの鹿皮交易は、僅か3箇年の交易記録(表‐1)にとどまっており、更なる史料の発掘が待たれます。

4 最後に

江戸時代初期の朱印船貿易により台湾やタイ、カンボジア、フィリピンの4地域から日本に輸出された鹿皮の総数量は、1613年から1639年の27年間で2,522,404枚から2,559,404枚でした。

川島(1994年)は、江戸時代初めの日本における「シカの大量消費(需要)を支えるために、朱印船貿易に従事した日本人をはじめ、オランダ人・中国人たちは、当時、シカが大量に生息していたアジア各地から鹿皮の日本への大量輸出に手をそめた。この結果、東南アジアでは、それまで現地で生活する人々の食料であったシカが大量に殺戮されることになった。当時からすでに、シカの絶滅を危惧する声も上がっていた程であった。」と総括しています。

川島(1994)の100頁超の労作である論文のタイトルは、「日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのかーシカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐるー」とあります。私は、今から約4世紀前に「日本企業」が関与してきた台湾やタイなど4地域でのシカと社会の関係(史)を視る/知ることができました。

最後に、川島(1994)は、この論文の「肝」となる鹿皮の輸出数量について、「これは、あくまで筆者が参照することができた史料によった数量であるから、公刊・訳出されていない史料を博捜するならば、さらに膨大な数に上がることは確実であろう。」と見立てています。

次回からは、自身が出会えた『史料』より、シカとオランダ(人)の関係(史)を観てゆきたいと思います。


引用文献


(注1)ジャンク船 ジャンク船については、本連載コラム(江戸初期のシカ皮交易)の「第2回 シカ皮交易と梅花鹿の絶滅」の(注5)をご覧ください。

(注2)匁 匁(もんめ) とは、江戸時代の貨幣単位。寛永2年(1625年)の「金銀銭公定換算率」については、「金1両=銀60匁=銭4貫文(貫=千文)」と定められていた(小野 2012)。なお、学研現代新国語辞典(2012)には、「1匁は1両の70分の1。」とある。

(注3)蘇木20万斤 蘇木は、紅花と並んで赤色染料として上代から盛んに使用されていた熱帯地方の樹木で、本邦にはその産出が無く中世期には琉球を通じて南海方面から盛に輸入され、又明や朝鮮等に再輸出されることも多かったという(岡田 1983)。蘇木は、鹿皮とともに日本への重要な輸入品目とされていた。なお、20万斤は120トン(斤;きん、約600グラム)。

(注4)リーグ league リーグとは、「①距離の単位、通常は約3マイル=約4.8㎞、②1平方リーグ(土地面積の単位)(岩波英和大辞典 1970)」である。本文には「僅かに20リーグの範囲」とあるが、「20リーグ」を20平方リーグとすると約460平方kmとなる。


2021年7月4日公開