赤坂猛「江戸初期のシカ皮交易」
  • あかさか・たけし
  • 一般社団法人エゾシカ協会代表理事。

第1回 日本・台湾国立公園等セミナーと梅花鹿

台湾の梅花鹿(メイファールウ、注1)が絶滅したのは江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因、と知らされたのは、1999(平成11)年9月に台湾で開催された「第4回日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナー(注2)」においてでした。以来、私は、「江戸初期のシカ皮交易と梅花鹿の絶滅」というテーマに(緩やかに)係るようになりました。

 

1 第4回日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナー

標記セミナーは、1999年9月26日~10月2日に台湾の最南端にある墾丁国家公園等で開催されました。参加者は、「国立公園及び野生動物の管理等」に従事する日本及び台湾の行政や民間機関、大学・研究所の関係者など総勢45名ほどでした。

今回の主なテーマは、台湾側の提案に基づき「野生動物と国立公園の保護管理」とされ、なかでも『ニホンジカの保護管理』が重視されていたことから、当時(1990年代)、ニホンジカの保護管理行政に鋭意取り組んでいた栃木県庁と北海道庁にセミナーへの出席要請がありました。セミナーは3日間にわたり、日本側8名、台湾側7名、合計15名が発表し熱心な質疑が繰り広げられました。ニホンジカの保護管理に関する発表を、以下に記します(表‐1)。

表‐1 第4回日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナーの発表者及び演題

日本側 辻岡幹夫 栃木県林務部自然環境課課長補佐 栃木県におけるシカの保護管理について
安齋友巳 (財)自然環境研究センター研究員 ニホンジカの保護管理のための調査手法について
中島順一 長崎県県民生活環境部自然保護課課長補佐 雲仙天草国立公園雲仙地域総合整備基本計画(緑のダイヤモンド計画)について
沖洸三 元日光国立公園管理事務所長 日光国立公園日光地区の交通状況
小坂橋延弘 (社)道路緑化保全協会常務理事 国立公園等の道路周辺の景観、自然環境の保全
森 孝順 (財)自然公園美化管理財団事務局長 国立公園における自然解説等の情報提供について
上野 攻 (財)国立公園協会事務局長 日本の海岸地域の保全と活用
赤坂 猛 北海道環境生活部環境室自然環境課課長補佐 東北海道地域におけるエゾシカの保護管理について
台湾側 呂 光洋 国立台湾師範大学教授 生態系の再建及び棲息地の回復
劉 新明 墾丁国家公園管理處保育研究課長 台湾梅花鹿再育成研究計画の成果と未来の展望
黄 光瀛 陽明山国家公園管理處技士 陽明山地区台湾松雀鷹の繁殖生物学及び保全育成
劉 小如 中央研究院動物学研究所 棲息地の再育成から金門国家公園の鳥類の群集を見る
陳 隆陞 玉山国家公園管理處課長 台湾黒熊の生態調査と管理対策
林 良恭 東海大学生物学科教授 台湾小黄鼠狼の系統学的位置の研究、並びに台湾の陸棲哺乳動物の動物地理と保全育成を論じる
曽 晴賢 清華大学生命科学系教授 台湾櫻花鉤吻鮭の棲息地環境の変遷と血統集団の現況との関係

まず、台湾からは、1969(昭和44)年に絶滅したニホンジカ(台湾名は「梅花鹿」)の『復元事業計画の成果と展望』と題する発表がありました(劉 新明、表‐1)。『復元事業計画』は国家プロジェクトとして1984(昭和59)年に立ち上げられたこと、台北市立動物園で飼育・展示されていた梅花鹿22頭を墾丁国家公園内の研究施設(保護繁殖施設)に移送しスタートしたこと、本事業計画は「準備期」・「放し飼い期」・「野に放っての追跡調査期」の三段階を計画し、既に野外での自然繁殖に成功させたこと、1999年時点で個体数200頭以上へと回復させ一部個体を山野へ試験放逐したこと等、15年余の事業の成果が(当時としては珍しかったPPを用いて)簡潔な図表とともに語られました。

対する日本における1990年代は、日本列島の各地においてニホンジカによる農林業や自然植生への被害問題が顕在化してきた時代でした。そのような時代状況を踏まえ本セミナーでは、栃木県日光地域におけるニホンジカによるシラネアオイ群落など自然植生の食害とその対策に関する発表(辻岡幹夫、表‐1)や、北海道東部地域におけるエゾシカによる農林業被害と個体数コントロールに関する発表(赤坂 猛、表‐1)、さらに、ニホンジカの保護管理のための調査手法に関する発表(安斎友巳、表‐1)がされました。

本セミナーのメインテーマとされた『ニホンジカの保護管理』には、保護繁殖事業に邁進し梅花鹿を「大自然の懐に返」そうとしている台湾と、増えすぎたニホンジカの適正な個体数コントロールを進める日本の発表となりましたが、農業被害の補償制度やシカの管理目標(1頭/㎢)の根拠、植物群落の保護対策等、終始、活発な質疑応答が交わされました。なかでも、「有害駆除は、生け捕りか?」との台湾側の質問に対し「捕殺である。」との答弁に、会場の空気が凍り付いたことが今でも鮮明に思い出されます。

冒頭で記しましたが、私は、3日間のセミナーの終了後に台湾の参加者より、「梅花鹿が絶滅へと至ったのは、江戸時代初めのシカ皮交易による梅花鹿の乱獲が原因…」と知らされました。更に、「梅花鹿の国家プロジェクトは順調に進んできており、いずれ野生の梅花鹿は復元され絶滅宣言が撤回されること、そして梅花鹿を狩猟獣に指定し原住民族の文化の多様性を復活させること」等を、伺いました。

墾丁国家公園管理局保育研究課長の劉新明さん(1999)の発表要旨には、以下のように記載されています。「梅花鹿は…数百年前、農牧社会の中では経済的にとても重要な地位を占めていた。正にそれが高い経済的価値を有するが故に過度の狩猟捕捉に遭い、加えてその棲息する環境も深刻な破壊を受け、野生の種族の絶滅の危機に陥るに至った。」とあるのは、上記のシカ皮交易による乱獲を示唆しているように思われます。

また、セミナー参加者に配布されたテキスト「台湾梅花鹿」(Ying & Shih 1999)には、「台湾は毎年日本に10万枚以上のシカ皮を輸出していた、と歴史資料に記されている」と明記されており、また「これまでの数百年間に及ぶ『終焉のない狩猟行為』と農地開発に伴う生息地への侵入が、梅花鹿を文字通り壊滅させてきた」とあります。なお、本テキストには「毎年日本に10万枚以上のシカ皮を輸出」に関する資料等はありませんでした。

第4回セミナーの前半3日間は墾丁国家公園のゲストハウスでの発表会及び公園内の梅花鹿のビジターセンターや保護繁殖施設等を視察しました(写真1)。その後、台北市に移動し、台湾の最北に位置する火山景観や温泉を有する陽明山国家公園を視察しました。台湾の国家公園の公園施設や管理体制等はアメリカ合衆国の国立公園制度等を参考にしている、と感じた次第です。

墾丁国家公園内の梅花鹿の保護繁殖施設梅花鹿ビジターセンター

写真1 墾丁国家公園内の梅花鹿の保護繁殖施設(上)及び梅花鹿ビジターセンター(下)

なお、私は、10月1日の晩餐会のスピーチで「本セミナーで発表した北海道でのエゾシカの個体数コントロールの取り組みは、いずれ台湾においても訪れるであろう梅花鹿の管理問題において、必ずや参考になると確信しております…。」と話した次第です。

本セミナーのお陰で、自身の新たなテーマ「江戸初期のシカ皮交易と梅花鹿の絶滅」にも出会うことができました。

とはいえ、7日間のセミナーから札幌に戻った私には、山積する鳥獣行政の諸課題が待ち受けていました。10月下旬に報告した所属長への「復命書」以降は、しばし自身の新たなテーマと離れていましたが、約1年後となる翌2000(平成12)年11月上旬に自宅に郵送されてきた雑誌「東北学 vol.3」(写真2)により、動き出すこととなりました。

写真2 雑誌「東北学 vol.3」

 

2 江戸初期の朱印船貿易によるシカ皮輸入

「東北学 vol.3」は、山形市にある東北芸術工科大学・東北文化研究センターの会員である私に配布されてきた雑誌(全412頁)でした。今号は、総特集「狩猟文化の系譜」とあり、重厚なインタビューや多くの論考が掲載されていました。この総特集の冒頭「特集に寄せて」には、「この弧状なす列島の歴史や文化の深みには、たしかに狩猟文化の系譜が埋もれている。しかし、それは見えにくい、…」とあります。

早速、本特集を読み進めていた私は、田口洋美さんの論考「列島開拓と狩猟のあゆみ」(全36頁)により、前年の1999年9月に台湾で得たテーマ「江戸初期のシカ皮交易と梅花鹿の絶滅」に関連する貴重な知見等に遭遇することができました。

田口洋美さんは「表2 列島の狩猟史」として、675(天武4)年から1963(昭和38)年までの約1300年余の狩猟年表を全3頁に詳述されています(「野生動物問題よもやまばなし」第4回でも年表の一部を引用)。狩猟年表の江戸初期には、「朱印船貿易によるシカ皮の大量輸入」と大書されています。自身のテーマ「江戸初期のシカ皮交易…」と「朱印船貿易」が繋がった瞬間です。

論考の本文には、「17世紀前半の日本は朱印船貿易によって台湾やフィリピン、ベトナム、タイ、カンボジャなどから大量のシカ皮を輸入していた」とし、当時のシカ皮輸入量が「表4 朱印船貿易による17世紀前半のシカ皮輸入量」(田口 2000)としてまとめられています。表4には、江戸時代初期の1613年から1639年の間の台湾・タイ・カンボジア・フィリピンからのシカ皮輸入量がまとめられています。

台湾からのシカ皮輸入量は、1624年の1万8千枚、翌1625年の20万枚、1626年の4万6千枚と続きます。1633年の約5万枚、1634年の75枚、1635年の1万枚、1637年の4千枚、そして1639年の300枚へと続きます(田口 2000)。シカ皮輸入量は、「年」により20万枚から75枚と大きな開きがみられ、また輸入量のない「年」が7年間(1627~1629、1631、1632、1636、1638)もみられますが、1624年から1639年の間で約32万9千75枚のシカ皮が台湾から日本に輸入されていたことがわかります。

シカ皮約33万枚という輸入数量は、昨年の台湾のセミナーで私が耳にした話、「梅花鹿が絶滅へと至ったのは、江戸時代初めのシカ皮交易による梅花鹿の乱獲が原因であった…。」の背景を示唆しているかのようです。先に、台湾から日本に毎年10万枚以上のシカ皮が輸出されていたとの歴史資料(Ying & Shih 1999)に触れましたが、表4(田口 2000)との関係(整合性)が気になります。

なお、シカ皮の輸入は、1639年以降の幕府による鎖国政策の強化によりその輸入は急激に落ち込んでいく(田口 2000)、とあります。
 
ところで、「朱印船貿易」について、永積洋子さん(2001)は著書「朱印船」の最後に次のように記されています。「朱印船貿易が行われた時代を、海外渡航朱印状が現存する時代に限定するなら、慶長9年から寛永12年(1604~1635)まで、わずか32年にすぎない」ことになります。ところが、「この制度がはじまる前に、すでに海外に渡航した日本人が大勢おり、また織豊時代から、さまざまな外国の産物がもたらされ、信長、秀吉、家康をはじめとする権力者に珍重されていた」のです。そして、「すでに17世紀以前からこのような人と物の流れがあったことが、朱印船貿易が発展する基盤となったことは確かである」と結ばれています。

「朱印船」(永積 2001)より、自身のテーマを「江戸初期のシカ皮交易…」としていましたが、江戸初期に限定してしまうことは「シカ皮交易」の実態や実績等を見誤ることになってしまう、という警告を得た次第です。

ところで、田口洋美さんのまとめた「表4」は、『帝京史学(第9号)』に掲載された論文「日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのかーシカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐるー」(川島 1994)より作成されたものです。「シカ皮交易の旅」が続きます。


引用文献


(注1)梅花鹿 ニホンジカSika deer は、東アジアから南東アジアに広く分布している。台湾に生息する梅花鹿Formosan sika deer(Cervus nippon taiouanus) は、ニホンジカの亜種である。今から数百年前、梅花鹿は台湾の平地から丘陵地帯に広く生息していたが、1969年に東部海岸の山稜地域で捕獲した梅花鹿が最後の野性の個体となり、以後、梅花鹿は「絶滅種」とされた。(以上は、「台湾梅花鹿」(Ying Wang & Shih‐Chen Chan 1999)より引用)

(注2)「日本・台湾国立公園保護地域経営管理セミナー」 セミナーの目的は、日本と台湾の自然環境保全等に関する学識者や国立公園等の保護管理の従事者が集まり、双方の情報と知見の交換等を通して、国立公園等のより適切な管理運営に役立てることにある。また、本セミナーは、外務省の外郭団体である(財)交流協会が(財)国立公園協会に委託し、1996年に第1回セミナーを日光国立公園等で開催し、以後、日・台交互に毎年開催してきている(森 1999)。


2021年4月30日公開