レジェンド登場!
エゾシカ協会設立から間もなく四半世紀。
活動を支えてきたレジェンドたちのインタビューをお届けします。
第1回 大泰司紀之さん
おおたいし・のりゆき
1940年生まれ。エゾシカ協会初代会長(1999~2008年在任)。北海道大学名誉教授、酪農学園大学特任教授。
2021年3月25日、札幌にて。撮影・伊吾田宏正
ワイルドライフ・マネジメント提唱への伏線
1971年から1994年にかけて、北海道大学歯学部解剖学講座の講師・助教授だった私は、世界のシカ類の形態・系統・進化学をひとつの研究テーマにしていました。1981年に標本を調べるためにロンドンにある大英自然史博物館を訪れていたことがありました。その機会にシカの生態やマネジメントのフィールドも見ておこうと、哺乳類担当のジュリエット・クラットン-ブロック博士に紹介されて、アカシカの繁殖生態に関する研究で有名な調査地であるスコットランドのラム島やアカシカ協会のヤンソン氏の案内でスコットランドの猟区を視察しました。そこで、シカ類を自然資源として管理するヨーロッパ式のワイルドライフ・マネジメントを現場で確かめたことが、重要な体験となりました。その後、カナダや合衆国の調査地や管理ユニットを訪れ、やはり自然資源としての北米式のシカ類マネジメントの現場も見ました。
もうひとつ印象的な体験は、欧米ではシカ生態の研究者たちを含めて、多くの人が鹿肉を常食しているのを知ったことです。フィールドワークの前の腹ごしらえにと、調査ベース・ヘッド(リーダー)のフィオナ・ギネスさんから出された鹿肉シチューの美味しさは今でもよく覚えています。発展型シカ類やヒツジ類について総説をまとめたカルガリー大学の動物行動学者ガイスト博士の自宅を訪れた時は、博士自らが仕留めたシカを使って鹿肉料理の名人に作ってもらったというソーセージをご馳走になりました。彼らは正に自然資源の恩恵を受けながら、その調査研究に携わっていたのです。
これら先進地の現場での貴重な体験が、その後の私の研究活動や協会設立の原点となり、さらには「エゾシカ管理のグランドデザイン」(2018年)にも受け継がれたと思っています。
シカ生態研究ことはじめ
シカの生態に関する調査は、1970年代はじめから、十勝芽室のピパイロ岳で、近藤誠司君(後述)ほか北大ヒグマ研究グループの学生たちと行なっていました。その後、エゾシカの増加が顕著となり、本格的な生態に関する調査研究を行なうことになりました。そこで、近藤君と当時北海道大学農学部林学科造林学教室の大学院生だった梶光一君や小泉透君、および同学部応用動物学教室(現動物生態学教室)の米田政明君と、まずは勉強会を始めました。歯学部の解剖学教室に集まっては、世界のシカ類の生態やマネジメントに関する論文を読みました。参考のため、鯨類の資源管理で先行していた漁業資源管理についても勉強しました。
この勉強会を通じて、「これからは日本でも欧米式のワイルドライフ・マネジメントを広めよう!」という私たちの大方針が決まったのです。1980年に始まった5ヶ年計画の環境庁のエゾシカ調査の一環として、シカと森林の関係に関する洞爺湖中島の調査を、梶君を中心として進めたのもこの頃です。欧米のように、林学研究の一環としてこのような調査研究を行なうのが相応しいと思っていました。同時に、マネジメントの基盤となる個体群動態調査のための歯列交換法や年輪法による年齢査定については、小泉君が全道から集めた捕獲個体について実施しました。
当時の日本は野生動物保護管理の後進国で、中山間地域では密猟が横行し、その反動で都会では動物愛護運動の全盛期でした。特別天然記念物のカモシカでさえ、密猟の対象だったのです。そのような中でシカを食べて管理する欧米式の資源管理を導入しようというアイデアは社会的にはかなり抵抗がありました。野生動物の研究者の間でも「鹿肉を食べるなんてもっての外」と思われていた時代です。私たちが、標本をとるためにシカを撃ち、その肉を食べながらエゾシカの生態調査を行なっていると、研究者にあるまじきとんでもないことをしていると、サルの行動研究などをしている京都大学の人たちなどから非難を受けたものです。
1974年から1979年の間に行なわれた奈良公園のシカの調査で知り合った東京農工大学の丸山直樹さん(当時は助手、その後、野生動物保護管理研究室の教授)のお誘いで、環境庁の野生動物管理を検討する会議に参加したことがあります。丸山さんは会議の座長だったのですが、途中で辞めてしまったので、その後私が急遽座長をすることになりました。そして、欧米式のワイルドライフ・マネジメントを導入するべきだという検討会の報告書を作成したのですが、他の新聞社の論説委員などの「有識者」委員が反対であったためか、環境省のお偉方の圧力により、報告書はお蔵入りとなってしまいました。このようなことがあってから、私はまずは北海道で先行してモデルを作るべきだと考え、その後のメスジカ捕獲などを推進してきました。
北海道モデル
1990年に横浜で第5回国際生態学会議が開催されました。私たちは、来日した世界の著名なシカ類とクマ類の研究者たちを北海道にお招きして、「シカ・クマ国際フォーラム北海道1990」を開催しました。道内各地の「現場」を1週間かけて視察してもらった後、札幌で公開シンポジウムを開催したのです。スピーカーは、スコットランド林学研究所のラトクリフ博士やカリフォルニア大学のマッカロー博士など、それまで国際学会などで旧知の野生動物研究の仲間たちでした。
フォーラムでは、まず我々が北海道におけるエゾシカとヒグマの保護管理の現状と課題を紹介した後、ゲストのみなさんに先進国のシカ類とクマ類の保護管理の事例紹介と北海道への提言をしてもらいました。彼らは、北海道に野生動物の研究機関が必要であること、シカは間引いて個体群管理をするべきであることなどの意見を述べてくれたのです。このフォーラムの内容が、北大ヒグマ研究グループOBの松浦慎一記者によって、特集記事として北海道新聞に詳しく掲載されたのをきっかけに、北海道知事が野生動物保護管理に関心を示し、北海道議会でもシカ・クマ対策と調査研究の必要性が議論され、翌年にはエゾシカとヒグマの調査研究を担う北海道環境科学研究センターが設立されたのです。
設立に向けた道庁内部のキーパーソンは、当時自然保護課の哺乳類主査をしていた赤坂猛さん(現・エゾシカ協会会長)でした。フォーラムの詳細な内容は、「シカ・クマ国際フォーラム北海道1990報告書」として、野生生物情報センター(現・エコネットワーク)から刊行しました。
1990年にはエゾシカの農業被害は20億円に達し、農業の継続が困難な事態も生じました。そこで、北海道農政部ではエゾシカ対策調査検討委員会を立ち上げ、私はその座長を仰せつかりました。そこでまず欧米から学ぶために、私たちが翻訳などに協力して、北海道農政部が1992年にシカ管理の論文などの内容を紹介した「シカ類の保護管理:ヨーロッパ・北アメリカにおける理論と実践」を発行しました。さらに、1992年には「シカ類国際シンポジウム北海道1992」を開催し、欧米式のマネジメントについての情報を収集し、理解を深めていきました。
エゾシカ協会設立前夜
1995 年に北海道大学獣医学部に生態学教室(現野生生物保護管理学教室)が開設され、私はその教授となりました。翌1996年にはエゾシカによる農林業被害が50億円を超えて、大きな社会問題に発展する中、1997年に北海道農政部が、ヨーロッパのシカ管理に関する現地調査をすることになりました。
派遣する調査員の旅費についた予算は2名分でしたが、格安航空券や安宿を利用するなど1人あたりの費用を半分に節約して、団長の私を含めた4名の旅費に充てました。さらに、関係者に声をかけて、手弁当の参加者を募り、総勢12名、1997年11月1日から2週間の日程で、スコットランド、ドイツ、ハンガリーを訪れました。
現地では、猟区や養鹿場、食肉処理施設、レストランを訪れ、伝統を踏まえた先進的な本場のシカ資源管理を調査しました。毎晩のホテルと帰りの飛行機で報告書を分担して執筆し、「エゾシカ有効活用実態調査報告書」として農政部に提出しました。それに手を加えて翌年には本間浩昭・毎日新聞記者と共著で丸善プラネットから「エゾシカを食卓へ:ヨーロッパに学ぶシカ類の有効活用」を発行しました。このときに視察したスコットランドのアカシカ協会がエゾシカ協会発足のヒントとなったのです。
アカシカ協会はスコットランド政府の機関で、シカ類のマネジメントに関する総合的な業務を行なっていて、生息数推定、収獲数の決定、食肉処理施設の監査などを掌握しています(現在は政府組織スコットランド自然遺産に統合)。
アカシカ協会に倣ったエゾシカの有効活用を推進する団体を設立するといっても資金はありませんでしたが、視察にも参加したガラガーエイジ(株)(現ファームエイジ(株))の井田宏之さんが事務局長を担ってくださり、やはり視察に参加した社長の小谷英二さんが事務局を社内に置いて下さったのです。
こうして、視察メンバーを中心に、また、それまで鹿害に悩む町村、農協、研究者の有志で作っていた「エゾシカ被害対策連絡協議会」を再編して、1999年にエゾシカ協会を設立することができました。私は初代会長を仰せつかりました。
エゾシカ協会の初期の取り組み
協会の活動として、まず取り組んだのは、狩猟者教育でした。その年には、「ハンティングマニュアル(暫定版)」を作成したり、「ワシ類の鉛中毒防止のために」を発表したりしました。
次に取り組んだのは、衛生的な食肉利用の普及でした。翌2000年には、「エゾシカ食肉マニュアル(暫定版)」を発行したり、北海道知事に対して、2001年には「有効活用に関する要望書」を、2003年には要望書「エゾシカ肉の衛生管理について」を提出しました。さらに2002年には北海道の「猟区管理運営形態調査」を受託し、その調査を元に、2004年に西興部村猟区の開設を実現させました。
協会の取り組みが功を奏して、2005年には、北海道がエゾシカ有効活用検討委員会を設置し、座長には北海道大学農学部畜牧体系学研究室教授の近藤誠司君(2008年から協会2代目会長)が就任して、2006年には北海道が「エゾシカ有効活用ガイドライン」と「エゾシカ衛生処理マニュアル」を作成しました。翌年には、協会がそのマニュアルに基づいたエゾシカ肉認証制度を創設しました。この認証制度は10年後に北海道が引き継ぎました。
これらシカ有効活用の取り組みは全国に先駆けたものであり、その後、他の自治体や国が同様の取り組みを始めるモデルとなったのです。その間、フリーライターの平田剛士さんのサポートによるニュースレターやホームページの内容充実も素晴らしかったと思っています。
次の世代に向けたエール
このように私は1980年代から世界のシカ管理の現場を目にして、それを日本で実現させたいと思い、奮闘してきましたが、有能な仲間と後輩に恵まれ、多くのことが、ある程度達成できたと思います。新しいことを始めるときに、最も苦労したのは、お役人が邪魔をして時間とエネルギーを奪われたことでしたが、逆に味方となって、一緒に世の中を変えてくれたのは、一部の熱意あるお役人でした。
ところで、海外とのシカ共同研究活動は、1980年代から中国のチベットや新疆などで行なっていたのですが、そこで目にしたのは、袋角採取を目的とした大規模な養鹿事業でした。袋角は中医薬のロクジョウ(鹿茸)薬剤として大変な価値があります。ロクジョウ活用の推進は現在酪農学園大学准教授の伊吾田宏正君に引き継いでいますが、ぜひ北海道で衛生的なロクジョウ採取のためのマニュアルを作成してほしいと思っています。
もうひとつの残されている課題はフォレスター(森林資源管理員)制度の導入です。イギリスやドイツでは公有林私有林の区別なく、大規模森林では土地管理者がフォレスター(またはディアマネージャー)を雇用し、ライフル銃によるシカ類の計画的な収獲を行なっています。「エゾシカ管理のグランドデザイン」でも提案されているように、日本でも、国有林や都道府県有林、社有林などで、猟区制度を導入し、シカ資源管理の専門職員を雇用して、全ての捕獲個体を国民の食卓に提供できるような時代が早く来るのを願っています。
インタビューと構成/伊吾田宏正
2021年6月8日公開